「父と子の愛の中で」

2020年8月2日(平和主日)
ヨハネによる福音書15章9節~12節

「もし、わたしの戒めたちをあなたがたが守るならば、あなたがたは留まっている、わたしの愛のうちに」とイエスは言う。「戒めを守る」ことと「愛のうちに留まる」ことは同じことだと言う。戒めと愛は一つなのである。

確かに、神の戒めである十戒は、我々人間が神の意志に従うことを求める。その従順は、神が愛してくださっていることへの従順である。愛されているがゆえに、従う。戒めを与え給うた神は、我々を愛しておられるがゆえに、与え給うたのだ。しかも、その戒めを守る力がないとしても戒めは与えられている。相手に力があろうとなかろうと、神はご自身の意志を変えることはないからである。そして、ご自身の愛も変えることはない。それゆえに、十戒は神の変わらない愛から生まれ、与えられている。

この父の愛のうちに留まっているイエスの戒めも、同じ根源から発している。イエスが弟子たちを愛したがゆえに、戒めも与える。戒めは愛する存在に与えられる。戒めは愛に留まるために与えられる。愛されていることを受け取るために与えられる。これが、今日の福音書で語られているイエスの意志である。

父なる神の愛は、イエスに与えられ、イエスの愛は弟子たちに与えられる。弟子たちの愛は、互いに与えられる。互いに愛する愛の根源は父であり、イエスである。我々人間から発するものではない。愛された者が愛する者とされる。これが父なる神から始まっている愛の連鎖。父と子の愛の中で、我々人間は愛の連鎖に加えられ、愛する者として造られていく。マルティン・ルターが言うように、人間の愛は、愛する対象を求めるが、神の愛は愛する者を創造する愛である。造り出して、生かす愛である。人間の愛は愛する対象を自分だけのものにしようとする。閉じ込める愛であり、ギリシア語ではエロース。神の愛は、アガペーであり、与える愛であって、広げる愛である。

すべての者が、父なる神の愛によって造られた。父の創造の意志は、造られた存在が愛する存在として生きることである。そのために造られたにもかかわらず、我々人間は罪を犯し、自分のものとする愛に縛られてしまっている。そこから解放するのは、イエスの戒めである。自分のものとする愛ではなく、互いに愛する愛。互いを生かす愛。互いを支える愛。この愛の中に留まるとき、我々人間は神の平和を生きる者とされる。預言者ミカが語るように、「それぞれが自分のぶどうの木、いちじくの木の下に座る」ような平和が、神の平和である。同じところではなく、自分の場所に留まることができる平和。自分を生きることができる平和。これこそが、イエスが我々に与え給う平和である。そして、我々の喜びが満たされる平和である。

イエスの喜びは、我々人間の喜びが満たされること。イエスの喜びは、我々人間の平和を造り出す。一人ひとりが自分らしく生きることができる平和。自分の喜びを喜び、他者の喜びを認める平和。互いを愛する平和は、互いを認める平和である。それゆえに、我々が考える平和ではない。敵を駆逐して平和を手に入れることではない。恨み、妬み、争いを生み出す平和ではない。平和のためと言いながら、争いを仕掛ける平和でもない。我々の世界の平和は、争い、排除し、駆逐する平和である。これこそが平和だと思い込んでいるが、ただ戦争しているだけである。自分たちが絶対的に正しいと思うがゆえに、平和は永遠に来らない。争いと妬みが渦巻き、永遠に戦い続ける。

愛する対象を求めて、愛することができる者たちを集めて、平和だと思い込む。グループを作って、思想の違う者を締め出す。異端を叩いて、正統派を守る。異なる思想が毒すると考えて、一つの思想に統一しようとする。他者の思想を聞く耳は持たない。他者に自らの思想を植え付けようとする。他者の耳を開こうとする。自分は開いていないのに、相手には開けと言う。思考の基点が違うのだから、理解できないのは当たり前。しかし、理解しない相手が悪いと考える。このような思考によって、我々人間は罪を広げてしまう。そこから転換するにはどうしたら良いのか。イエスの戒めに留まること、イエスの愛に留まること。それだけが我々の平和の源なのである。

イエスは、父なる神の愛の中に留まり、父なる神の戒めを守り、父なる神が愛し給う存在を愛する。このイエスに従うとき、我々人間はイエスと一つとされ、父と子の愛の中ではぐくまれていく。父なる神から始まる愛の支配は、父なる神の意志の支配。神の意志に従う世界は平和を見出す。父はお造りになったものすべてをご覧になって「極めて良い」とおっしゃった。我々一人ひとりは、本来的に「極めて良い」存在なのである。しかし、堕罪の結果「極めて自分勝手」な存在となってしまった。自らの悪は認めず、他者の悪を糾弾する存在となってしまった。自分勝手な思考を駆使して、同調しない者を貶める。自分の世界を広げて、神の世界を狭めている。これが我々人間である。このような人間を神はどうしようと思われたのか。このような世界をどうしようと思われたのか。ヨハネは言う。「なぜなら、神は世を愛した、独り子を与えるほどに」と。神は罪深き世を愛し、独り子を与えたと言う。イエスを与えることで、何が変わるのであろうか。イエスが愛する者たちを創り出すことが生じる。一人ひとりが、イエスの愛の中に留まり、戒めを守ることが生じる。そのために、神はイエスを世に与え給うた。この神の贈与は、十字架において完成する。ヨハネのイエスは言う。十字架の上で言う。「完成した」と。十字架は完成である。神の愛の完成。神の愛の充満。神の愛の成就。この成就した愛の中に留まることをイエスは求め給う。

イエスの愛の中に留まることは、父の愛の中に留まることであり、互いを愛する力である。我々人間は互いを愛することはできない。自分勝手に、自分のお気に入りを集めて、平和を満喫していると思い込む。何事もない平和を生きていると思い込む。しかし、一旦ことが起こると、満喫されていた平和は崩れ、互いに疑心暗鬼に陥る。根源的な愛に基づいていない平和は簡単に崩れる。互いを恐れ、互いを疑い、互いに離れる。こうして、我々は平和を争いと憎悪に変えてしまう。

ことが起こったとき、崩れ去る平和は平和ではない。ことが起こったときにこそ、真実の平和がものを言う。自分のことは捨てて、他者のために仕える。自分のためではなく、他者のために尽くす。自分の守りは神の愛の中にあると信じる者は、自分のために生きることはない。自分自身は神が愛してくださっているがゆえに、愛してくれる相手を求めることはない。根源的な愛の中でこそ、平和を生きることができる。これが、イエスの十字架が語っていることである。イエスの十字架において完成した平和、神との和らぎ。互いにおける愛の進展。十字架から、創造された存在の在り方。これが聖書が語る平和である。

預言者ミカが語るように、強い国々を戒め給うのは神の言葉。弱く、小さな存在を愛したまう神の意志。戒めが語られるのは、小さき存在を愛するがゆえ。戒めは愛そのもの。戒めは守るべきもの。戒めは愛を創り出す神の言葉。戒め給うイエスの愛もまたイエスの十字架から来る言葉。互いに傷つけ合うことなく、互いを認め、受け入れ、敵が生きることを助ける。父と子の愛の中で、愛を供給されて生きる。これがイエスの喜び。これが我々キリスト者の喜び。これが闇の世界を愛する神の喜び。

この喜びのために、イエスは一粒の麦として地に落ち給うた。その一粒から生じたパンが、ご自身の体であると言い給う。我々がこのパンから食べ、イエスの杯から飲むとき、イエスが我らのうちに入り来たり給う。我らの魂と一つとなって、我らを平和の道へと導き給う。この平和が父と子の愛の中で生まれた平和。我らを包み給う平和。地に落ちて、あなたという実りをご自身のものとしてくださったお方の愛の中に受け入れられていることを感謝して、共に配餐に与ろう。

祈ります。

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