「カイロスを待つ」

2020年8月9日(聖霊降臨後第10主日)
マタイによる福音書13章24節~35節

「刈り入れのカイロスにおいて、わたしは言う、刈り入れる者たちに。まず、ジザニアたちを集めよ。」と主人は言う。ジザニアと言われている植物が何であるかは良く分からない。しかし、「敵」が蒔いたのであれば、良いものであるはずはない。それが少しずつ芽を出してきた時点で、抜き集めることを奴隷たちは主人に進言する。しかし、主人は応える。「刈り入れまで、両者共に成長することを赦せ」と。刈り入れの時とは、刈り入れのカイロスという言葉である。カイロスとは一瞬時であって、その時の中にすべてが充填されている時である。「機会」とも訳される。そのカイロスを待つようにと主人は言う。
我々は「カイロス」という一瞬時、機会をどうやって見つけるのか分からないものである。刈り入れのカイロスはいずれはやってくる。そのカイロスは、早すぎず、遅すぎず、ちょうど良い時のことである。カイロスを待つとは言え、ちょうど良い時をどうやって判断するのか。それはあくまで主人の判断である。主人の判断の時がカイロス、ちょうど良い時なのである。
このちょうど良い時、カイロスを見極めるのが主人であるとすれば、ここで奴隷たちが主人に進言するのは立場を弁えない僭越なことである。従って、奴隷たちはカイロスを待つしかない。待っていれば、主人が判断するカイロスがやってくると信頼していれば良い。それが奴隷たちの在り方である。
さらに、イエスが語る他のたとえでも、パン種のたとえにもこのカイロスを待つことが示唆されていると言える。では、からし種のたとえではどうか。こちらにおいても、からし種が成長して大きくなり、空の鳥が巣をかけるまで待てば良い。カイロスは、からし種にもある。そのカイロスを待つとき、空の鳥もちょうど良い頃に、巣をかけることができるであろう。
ここでイエスが語っている三つのたとえは、天の国のたとえであるが、カイロスを待つことが示されている。カイロスを待つためには、何が必要なのか。そのカイロスを判断する存在があって、他の存在には判断できないのであるから、判断する存在に委ねることが必要なのである。このことを弁えないならば、勇み足となり、すべてを破壊してしまうことにもなるであろう。天の国は、相応しい者が判断するカイロスを受け入れることの中にある。イエスはそうおっしゃっているのではないのか。
そうであれば、我々人間の中にも、カイロスを判断する力を与えられている者もいるであろうが、それが誰なのかは分からないのである。カイロスがやって来たときに分かる。それだけである。従って、我々はカイロスを判断できないことをまず受け入れなければならないのだ。そして、カイロスを待つのである。待つときには、いつまでと期限を設定することができない。それゆえに、永遠に待つかのように思えるであろうが、それでも待つ。それが、天の国に入る姿勢である。
我々が天の国に入るのは、カイロスに従ってである。神の設定し給うた一瞬時に従ってである。天の国の準備が整ったときが、我々の準備も整ったときであり、カイロスである。しかし、判断し給うのは神である。そして、カイロスは必ず来たる。これがイエスがたとえで語っておられることである。
カイロスを待つ間、我々は「まだか。まだか。」と焦る思いが起こり、「もう、来ないのではないのか」とあきらめも起こるであろう。それでもなお、待つ。そうしなければ、我々は天の国に入ることはできない。もしかしたら、そのうち、忘れてしまうということがあるかもしれない。我々が忘れてしまっても、カイロスは必ず来たる。カイロスは一瞬時だから、忘れていたならば、慌てるかもしれない。それでもカイロスは待ってくれない。それゆえに、カイロスを判断するのが神であろうとも、我々はカイロスが来たることを忘れてはならない。カイロスのために備えておくことを忘れてはならない。イザヤが伝えるように、神は「創造時から隠されていたことたちをはき出す」のである。はき出されたものたちが、語られた事柄であり、隠されていたのに語り出された事柄である。隠されていたことたちが語り出されたことによって、我々はカイロスが来たるのだと知る。そのために、神は語り続けてくださっている。この神の言葉を忘れないように、聞き続けることが、カイロスを待つ者の姿勢である。
しかし、カイロスを待つということだけであれば、わざわざたとえで語る必要があるのだろうか。語る必要はない。カイロスを待てと言えば良いだけである。それなのに、神はたとえではき出す。イエスもたとえを語る。これはどういうことなのか。
たとえというのは、「同じようなもの」を示すことによって、そのたとえで伝えようとされていることを自分で受け入れるようにさせるものである。つまり、宣言だけでは人は受け入れないということである。それが、十戒などの律法が語られても受け入れなかった民の姿である。それゆえに、神はたとえを用いる。自分で考えるようにさせるために、たとえで語るということである。ところが、語られていることを捉える理性がなければ、たとえは何のことか分からないままである。理性が働くのは、たとえに隠されていることを聞こうとすることにおいてである。隠されていることを隠されているたとえで語る。これが神が我々の理性を働かせようとしてくださる御心である。
我々がカイロスを待つことを、自らの理性で受け取り、カイロスを待ち続けるために、神はたとえをはき出す。たとえの中には、隠されていたことが隠されているというわけである。もちろん、隠されていることは、はき出されなければ、もたらされない。はき出された隠されていたことをたとえの中に隠して、神は語り出す。語り出されたたとえに隠されていることを、自分のこととして受け入れるためには、自分の理性で考えることが必要である。そのために、神はたとえをはき出す。イエスのたとえはこのようなたとえである。
では、自分の理性で考え、受け入れ、隠されていたことを受け取ったならば、カイロスを待つのであろうか。そうである。受け取った者たちは、自らの責任においてカイロスを待つであろう。それがたとえを受け入れた者である。カイロスを待つ力は、たとえの中にある。待つ者は、たとえを受け入れ、自らのうちに宿した者。それゆえに、からし種のように小さくとも、必ず大きくなる。パン種のように、見えなくとも現れる。毒麦が見えていても、焦ることなく待つ。あきらめることなく待つ。忘れることなく待つ。それがたとえを宿した者である。
我々キリスト者は、天の国を待っている。天の国が来たるのを待っている。待ち続ける我々自身が、たとえそのものを生きている。待ち続ける我々にカイロスが来たる。天の国に入るカイロスが来たる。カイロスを待ちながら、我々は天の国に入るように備えられる。それがカイロスを待つ意義である。たとえを語り出し給う神は、我々にカイロスを待つように備えを為させ給う。たとえを繰り返し聞き、繰り返し自らのうちに受け入れて、我々は少しずつ天の国に相応しい者としてはぐくまれていく。
あなたは今はまだ相応しい者ではないかも知れない。何の備えもできていないかも知れない。しかし、必ず収穫のカイロスは来たる。収穫に至るまでに、あなたは整えられ、神の収穫とされていく。自分では、備えられているとは思えないであろう。しかし、神の言葉はあなたを造り替えるために語り出されている。神の言葉を聞くあなたは見えないところで形作られている。隠されている者として形作られている。それが現れるのも、相応しいカイロスにおいてなのだ。
焦ることなく、あきらめることなく、神を信頼して、歩み続けよう。天の国に向かって歩み続けよう。神はあなたを喜び迎えてくださる。備えられた者として迎えてくださる。あなたは神のカイロスの中で善きものとして成長していく存在。あなたをはぐくんでくださる神の言葉を信じて、聞き続け、歩み続けよう。あなたが待つカイロスは必ず神が来らせ、あなたは天の国に入るであろう。

祈ります。

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