「善きものの集合」

2020年8月16日(聖霊降臨後第11主日)
マタイによる福音書13章44節~52節

 「似ている、天の支配は、畑の中に隠されていた宝に」とイエスは言う。「隠されていた宝」が「天の支配」に似ているということは、「天の支配」は隠されているということであり、それを発見したならば、喜んですべてのものを売ってでも買うであろうということである。

我々は天の支配、天の国を発見したのであろうか。すべてのものを売って、天の宝を購入したのであろうか。我々は何も売っていないのではないのか。「天の支配を発見した」としても、今までと同じように生きているのではないのか。すべてを売って、それを購入するということは、すべてを捨てることである。持っているものすべては「天の支配」に比べるならば何の価値もないと、捨てることである。我々は捨てたのか。「天の支配」だけがすべてであると生きているのか。この世がすべてであると生きているのではないのか。イエスは、我々に天の支配に相応しく生きているのかと、問うている。

我々はイエスにすべてをかけた。イエスが言う「天の支配」にすべてをかけた。この世に生きざるを得ないことを了解しつつも、「天の支配」にすべてをかけた。それがキリスト者である。我々はこの世に生きざるを得ない。「天の支配」を発見したとしても、この世から逃れることはできない。この世から出て行くこともできない。この世の中で生きなければならない。それなのに、イエスは「すべてを売って、それを購入する」ことを語っている。我々はそれを購入したのか。すべてを売ったのか。

この世に生きざるを得ないことを受け入れつつ、我々は最終的にこの世のすべてに自らをかけることを捨てたのである。最後の最後には、このわたしの魂が失われてはならないと、この世に頼ることを捨てたのだ。それがキリスト者である。それがキリストの十字架に従う者である。自分を捨て、自分の十字架を取って、イエスに従う。我らの主イエス・キリストは、この世から離れてはいない。この世の中で、十字架に架けられるまで生きてくださった。十字架において死ぬまで、神の意志に従った。これが「天の支配」を購入した者の生き方であると、イエスは十字架において示してくださった。我々キリスト者は、このイエスに従って、この世にあって生きる。

では、このイエスのたとえは何を語っているのか。最後にイエスが言うように、善きものの集合が「天の支配」だということである。天の支配を知った者は、宝の倉から「新しいものと旧いものを投げ出す」と言われている。新しいものだけではなく、旧いものも同じ価値を持つものとして投げ出すのである。新しくとも旧くとも、どちらも善きものであると投げ出す。善きものを集めるとしても、最終的には投げ出す。外に出す。善きものは、貯め込んで忘れるものではないのだ。我々は倉に収めると、忘れてしまうものである。収めて、安心するのかも知れないが、二度と出すことがないほどである。いつか、倉を整理するときになって、「こんなものがあった」、「これもあった」と思い出す。しかし、また仕舞い込む。しかし、「天の支配」を知った人は、仕舞い込まず、投げ出す。外に出す。こうして、善きものの集合を把握し、用いる。これが、今日イエスがたとえで語っておられることである。

最初の二つのたとえは、善きものの発見と収集。最後のたとえは、善きものの集合。集合した善きものを最後には取り出し、用いる。天の支配は、集めるだけではなく、取り出す。善きものの集合として、すべてを用いる。天の支配においては、すべての善きものが相応しく用いられる。これを知ることこそが、我々がキリスト者として生きる上で重要なことなのである。

我々自身は罪人であり、悪である。いかに良さそうに振る舞おうとも罪人、悪人。そのような者にも「善きもの」を与え給うお方がおられる。このお方が与え給う御心は、我々が相応しく用いるように与え給う御心である。この御心を知った者は、与えられたものをいかに用いるかを考える。我々が自分のために、自分の都合で用いるのではなく、神の意志に従って用いることを考える。与えられたものは、我々のものではない。神のものである。神の意志が宿った存在、物質である。この事実を知ることこそが、我々がキリスト者として生きる根源である。この世が悪であるとしてもなお、神は善きものを満たしておられる。善きものを善きものとして用いる者を集め給う。それがキリスト者とされることである。キリスト者は、神の意志に従って生きるように召された者である。それゆえに、我々は神の意志を知り、神の意志に従って生きる。自分を捨て、自分の十字架を取って、イエスに従う。これだけが我々がキリスト者である意味である。

このような窮屈な人生はイヤだと思っても、あなたはすでにキリスト者とされている。キリスト者とされた以上、神の意志を生きるようにされている。この事実を素直に受け入れ、従うことによって、我々はすべてのものを善きものの集合として用いることが可能とされる。イエスがたとえで語っておられるのは、このような事態なのである。そうであれば、我々は善きものの集合を相応しく用い、生きる者でありたい。自らのために、自らの都合で生きることがないように生きて行きたい。このために、イエスは十字架を負ってくださった。我々もまた、イエスに従って、神が与え給うものを素直に受け入れ、与えられたように生きる。そのために、イエスはご自身の体と血を与え給う。聖餐を通して、我々はキリストと同じ形に形作られて行く。これもまた、神の意志であり、神が我々を相応しく造り給う御業である。善きものの集合は、相応しくされた者が用いる。相応しく生きる者が用いる。如何なる悪にも負けることなく、義しく用いる。善きものを見出し、善きものを集め、善きものを用いる神の御心を生きる。それこそが、我々が生きる意味である。

キリストが我々のために語り給うたとえは、神の世界を、天の支配を語っておられる。天の支配は善きものの支配。善きものの集合。善きものの使用。我々はこのような世界を見て、このような世界が見えるように生きて行く。見てもなお、認めないままに、悪しき者として生きるならば、我々はキリストの体からこぼれ落ちるであろう。枯れてしまうであろう。キリストは、我々が枯れてしまわないようにと、語り続けてくださる。与え続けてくださる。ご自身を与え続け給うキリストは、ご自身と一つになるようにと我々の魂を配慮してくださっている。このお方の配慮こそが、天の支配の現れ。天の支配の現実。天の支配の使用。たとえを通して、現れを示してくださるイエスは、神の支配へと我々を招いておられる。このお方の語るたとえの中で生きる者は、たとえを自らの人生において実行する。実行されたイエスのたとえは、この世界に広がっていく。広がったたとえが、世界の中で天の支配を広げる。我々の愚かさ、罪深さにも関わらず、天の支配は我々を善きものの集合として用いてくださる。

あなたは、神の善きもの。神が、すべてを売り払ってもなお買い取ろうとする存在。あなたが善きもの。あの人も善きもの。善きものの集合を生きるのが教会、エクレーシアである。さまざまな賜物が相応しく用いられるのが教会、エクレーシア。一人ひとりが相応しく生かされるのが教会、エクレーシア。この教会の中に入れられた者は、宝の倉に収められた大切な宝。神が用い給う大切な宝。善きものの集合である。

今日も与えられる聖餐において、我々は如何に愛されているかを知る。キリストがご自身を与えても惜しくないと我々を愛し給う御心をいただく。聖餐において、キリストは我々に対する愛を分配してくださる。一人ひとりを愛してくださる。感謝していただき、キリストの善きものの集合である我々を共に生きていこう。この世界のすべて、我々すべてが神の善きものである。神に愛された善きものである。神の倉に収められた善きものである。倉から投げ出される者は、この世に派遣される者。この世にあって、善きものとして生きていこう、キリストの愛に応えて。

祈ります。

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