「讃美と溢れ」

2020年8月23日(聖霊降臨後第12主日)
マタイによる福音書14章13節~21節

「しかし、イエスは聞いて、そこから離れた、舟において、荒野の場所へ、独りで」と言われている。イエスは何を聞いたのか。ヨハネ殺害の知らせである。しかも、ヘロデの誕生日にヨハネが殺害されたことを知ったのだ。誕生の日と死の日が一つとなった出来事を聞いて、イエスはそこから離れた、独りで、荒野の場所へ。どうしてであろうか。独り、祈るためであろうか。ヨハネの魂のために祈るためであろうか。イエスは、ヨハネを殺害したヘロデの悪を思い、ヨハネの不幸を悲しんだのか。ところが、その後の群衆の窮状に対して、イエスは小さくされている者たちのために、神を讃美する。そこから5千人の男たちが満腹する出来事が生じた。ということは、ヨハネの不幸に思える出来事も含めて、小さくされている者たちの窮状も含めて、神を讃美したイエスなのである。どうしてなのか。

我々は、誰かの不幸に際しても、腹は減る。食べなければならない。誰かが殺害されたとしても、自らも命の危険にさらされているならば、それを回避しようとする。誰かの不幸は誰かのことであり、自らの空腹は自らのことである。それゆえに、我々自身は自らのことを第一にしてしまうものである。弟子たちも自らのことを第一にするがゆえに、群衆を解散させることをイエスに進言した。しかし、イエスは「あなたがたが彼らに与えよ、食べることを」と言い給う。そして、持っているパンと魚をもって、天の父を讃美し、分け与え、すべての者が満腹した。イエスは、ヨハネの悲しみにおいても、小さくされている者たちのことを考えて、行動している。弟子たちは、自らのことを考えることで精一杯である。

イエスの中では、ヨハネの殺害も神の出来事、神が支配しておられる中に起こった出来事。それゆえに、ヨハネが死んだとしても、地獄に陥ることはないと信じているであろう。しかし、目の前にいる群衆は行き倒れる可能性がある。彼らのことを配慮し、彼らのためにパンと魚を分配する。その際、イエスは讃美した、神を。そこから、群衆を満たすものが溢れた。如何なることにおいても、神を讃美することはすべてが満たされるように帰結する。

この真理をイエスは実践した。神讃美と溢れ、満たしはつながっている。ヨハネの死を支配し給う神は、群衆の腹も満たし給う。ヨハネの死を回避することはなかったが、群衆の行き倒れは回避させ給う。これは、ヨハネの生き方でもある。ヨハネの生き方を支配し給う神が、群衆を、小さき者たちを養い給う。ヨハネは、小さき者たちを見捨てることはなかった。彼らが悔い改めるために必要な助けを行った。彼らが神を信頼して生きるために必要な助けを行った。そのヨハネの意志は、神の意志である。神も、ご意志を貫徹するために、人間の反抗をも引き受け給う。反抗を繰り返す民に対して、神は終日語り続けてくださっている。その神が望み給うことは、一人ひとりが悔い改めて生きることである。神に従って生きることである。神を讃美して生きることである。この世界が来たるために、イエスはヨハネ殺害を知った日に、神を讃美した。小さき者たちの群れを祝福してくださる神を讃美した。この神こそが、群衆を満たしたお方である。

神こそが讃美されるべきお方。神こそがすべてを満たし給うお方。神こそが善きものを供給し給うお方。このお方の御支配によって、我々人間は守られている。ヨハネも神が支配し給い、その魂を受け入れ給う。群衆の窮状も神が顧み給う。この神の顧み、神の憐れみ、神の真実をイエスは示し給うた、群衆と弟子たちに。真実なるお方が、この世界を支配し、人間の悪にも関わらず、すべてを善へと導き給うとイエスは示し給うた。この出来事を一人ひとりが自らのうちに受け取り、神を信頼して生きるならば、すべては神の意志に従って成就していく。この出来事、この神の意志は、イエスの十字架の道にも輝いている。イエスにとっての不幸に思える十字架さえも、人間の悪が起こした十字架さえも、神の意志の前では善へと変えられる。すべての人間の罪を越えて、すべての人間に満たされる神の義。十字架という神の義によって、義を生きる者が起こされる。それが五千人の給食において示された神の愛、神の憐れみ、讃美さるべきお方の意志である。

この神の意志を群衆に示し給うたのは、主なるイエス。神を讃美するイエス。讃美からの溢れを分配し給うイエス。弟子たちを分配する働きへと導き給うイエス。自己にしか目が向かなかった弟子たちが、群衆に仕える者とされた。彼らに分配を命じ給うたイエスによって、弟子たちは仕える者として生かされた。これも、神讃美の溢れである。神を讃美することは、祝福が溢れること。讃美するという言葉は、ギリシア語でユーロゲオー。祝福するという意味もある言葉。神に向かって人間がユーロゲオーするときには、讃美。神が我々人間をユーロゲオーするときには、祝福。讃美する者が、祝福された者として生きる。良きことを語るという意味のユーロゲオーは、神に向かおうと人間に向かおうと良き言葉を生み出す。良き出来事を生み出す。この讃美と祝福の交換が、イエスの神讃美によって、もたらされた。弟子たちもイエスの讃美によって、祝福をいただき、神を讃美する者とされた。神の善きものは行き交う。善きものの溢れの中に行き交う。群衆も弟子たちも、イエスの神讃美の中に入れられ、祝福されていく。我々もまた、このイエスの讃美の中で、祝福されている。

イエスの十字架によって祝福されている。イエスが十字架を神讃美として生きてくださったがゆえに、我々は十字架によって祝福された生を生きることができる。究極の神讃美は十字架である。そこからすべての善きものが溢れ出す神讃美である。この世においては、不幸に思える十字架、不幸に思えるヨハネの殺害、不幸に思える群衆の空腹。それらすべては神を讃美するために起こされている神の出来事。たとえ、人間的な悪によって起こされた出来事であろうとも、神はすべてを祝福へと変え給う。我々を祝福の中へと入れ給う。我々から、この世界へと神の祝福が溢れ出す。イエスから、弟子たち、群衆へと溢れ出した神の良き言葉は、我々後々の者たちをも巻き込み、善きものの溢れを供給し続けている。

すべては善きものと信頼することこそが、神に信頼することである。神を讃美するのであれば、自らにとって不幸だと思えることにも、神の意志が宿っていると信頼すべきである。さらに、人間的な悪によって被った不幸に思える出来事でさえも、神が善きものとして用い給うと信頼すべきである。この信頼こそが真実の神讃美である。神讃美のあるところ、神の善きものが溢れ、広がっていく。我々キリスト者は、神への讃美と神の恵みの溢れに入れられた者として、この世にあって生きて行く。我々の生き方を通して、神を証ししていく。自らにとって不幸に思えることが起ころうとも、神に信頼する。他者にとって不幸に思えることが起こったときには、必ず善きものへと導かれていくと伝える。その人に寄り添い、祈り続ける。神を讃美し続ける。この讃美の中で、神の恵みが溢れ出すことを生きて行く。

我々はこのように証しする民として、神に祝福された者である。あなたの証しは、自らの不幸を通しての証し。自らの罪を通しての証し。自らの幸いを通しての戒めと悔い改め。このように生きる者がキリスト者である。

神の意志は絶対的に善きもの。神の意志は過つことなき善き意志。善なるものを溢れさせる神の意志を信じ、進み行く者に幸いあれ。あなたは祝福された者。あなたは讃美するように造られた者。詩編102編に歌われているごとく、「主を讃美するために、民は創造された」のだ。あなたは主を讃美するために創造された。キリストの十字架によって創造された。キリストの血によって創造された。キリストの祝福によって創造された。自らの創造の意味を受け取り、主を讃美する者に幸いあれ。あなたの人生すべてを通して、神を讃美する者でありますように。あなたの人生から神の恵みが溢れ出しますように。小さき者たちを顧み給う神の恵みが溢れ出すために、我々は神に用いていただこう。

祈ります。

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