「神の子の顕現」

2020年8月30日(聖霊降臨後第13主日)
マタイによる福音書14章22節~32節

「真実に神の息子として、あなたは存在している」と舟の中にいた弟子たちは言う。彼らはイエスを「神の子」として認識した。イエスが海の上を歩いたことを確認したからであろうか。通常の人間では不可能なことが可能だったからであろうか。恐らくそうであろう。しかし、それだけではない。ペトロも海の上を一端は歩いたのだ。そして、風を見て、恐ろしくなったがために、沈み始めたと記されている。そこで、ペトロはイエスに言う。「主よ、助けてください、わたしを」と。そして、すぐにイエスは手を伸ばして、ペトロを掴まえた。この出来事を見て、弟子たちは言ったのだ。「真実に神の息子として、あなたは存在している」と。つまり、ペトロに「すぐに手を伸ばして」、「掴まえた」ことが「真実に神の子」であるとの認識を起こしたということである。これは何を意味しているのか。

通常の人間にできないことを行うだけではなく、沈み始めたペトロを掴まえたということが神であることを顕していると弟子たちは認識した。これが神であると認識した。危急の際に、すぐに救いの手を差し伸べてくださるのが神であると弟子たちは認識したのである。イエスの救いの手は、このときだけではなく、波によって痛めつけられていた弟子たちのことを察知し、彼らのところへ海の上を歩いて行ったこともそうである。いや、そこから始まっている神としての働きなのである。これらのすべてを見て、弟子たちはイエスは真実に神の子として存在しているお方であると認識したのだ。

この認識は、不思議なこと以上に、自分たちのために、わざわざ海の上を歩くお方であるその御心に触れた認識である。遠く隔たった陸地と海の上を越えて、すぐに来てくださるお方。そのようなお方が神でなくて何であろうかと弟子たちは信じたのだ。不思議な出来事、力ある出来事を行うことができるということが神であることを示すのではない。むしろ、力があっても、その力を自分の誇りのために使うのが人間である。自らに与えられている力を他者のために使うことはない。自分が上に立つために、自分が勝利するために使うのが人間である。他者を助けるために自らの力を使うことはない。たとえ、そのように見えても、苦難が襲えばすぐに逃げ出す。自分可愛さに逃げ出す。それが人間である。他者を助けたいと思っても、離れていれば助けられないとあきらめる。これも人間である。わざわざ隔たりを越えて行こうとはしない。そのような人間であることを弟子たちも分かっている。それなのに、イエスは隔たりを越え、海を渡り、わざわざ来てくださった。沈み始めたペトロの手をすぐに掴まえてくださった。これこそが真実に神の子だと彼らは信じたのだ。これが今日語られていることである。

荒野の誘惑においては、イエスは神の子であることを不思議な業によって示すことはしなかった。どれだけ唆されても、ただみことばによって悪魔に対向した。みことばに従うことが神の子であると示し給うた。ご自身が神の子であることをわざわざ示す必要はない。ご自身が神の子であることは示すようなことではなく、イエス自身にとってそうであるというだけで十分である。自分のために、自分が神の子であることを示すことなどしなくても良いのだ。では、どのような時に示すのか。人間たちの危急のときである。

病人たちの癒しもその一例である。しかし、当時多くの癒し手がいた。そして、自分が神であるかのように振る舞う者もいた。そのような中にあっては、病人を癒したからと言って、神の子であることを示すことにはならなかった。それは、悪魔の誘惑に乗って、神の子であることを示すことと何ら変わりない。イエスは癒しを行ったが、それはご自分を神の子として示すためではなかった。そのようなこともおっしゃってはいない。むしろ、病に苦しむ人たちを救い、彼らに神の愛が注がれていることを示した。彼らを愛し給うお方を示した。それがイエスの癒しである。それゆえに、癒された人たちは神を信じる者として生きる道を歩み始めた。ところが、ここではイエスはまさに神の子として振る舞っている。「わたしである」という言葉はギリシア語でエゴー・エイミという言葉で、「わたしはある」という意味に解することができる。つまり、出エジプト記においてモーセにご自身を示し給うた「わたしはある者としてわたしはある」とおっしゃるお方と同じ言葉なのである。あるという言葉は、存在することであるが、ヘブライ語ではハーヤーという言葉で、神の存在の仕方を示す言葉である。ハーヤーは、生成するという意味である。つまり、すべてを生成するお方という意味である。従って、イエスが海の上を歩く姿を見て「幽霊だ」、「幻影だ」と恐れた弟子たちに応えた言葉は「わたしは生成する」という言葉なのである。つまり、すべてのものを生成しつつ生きているわたしであるということである。それゆえに、命の危機に瀕している存在を憐れみ、すぐに近づき、手を伸ばして救い上げる。これが神の子としての姿である。このようなイエスの姿を見て、弟子たちは「真実に神の息子として、あなたは存在している」と言ったのである。

イエスは、弟子たちの危急のときに、ご自身の真実の姿を現してくださった。それは彼らを愛するイエスの心である。彼らが失われて欲しくないという御心である。この御心に触れて、弟子たちは告白した。「真実に神の子として存在している」お方だと。イエスはこの認識を否定はしていない。あの山上の変容の時には、誰にも言うなとおっしゃったのに、ここではそのようなことはおっしゃらない。弟子たちの告白をそのままに受け入れておられる。ということは、イエスはここで弟子たちの真実の告白を受容したのである。その結果、彼ら弟子たちは風の弱まりを経験した。彼ら自身の中に、凪が生じた。凪が生じるということは、弟子たちの心が平安で満たされたということである。海の上も平安で満たされた。これが神の子の顕現に触れた者たちの幸いである。

イエスは弟子たちの前に神の子として存在するお方。弟子たちを鎮めるお方。自然の嵐も鎮めるお方。このお方が我らの救い主イエス・キリストである。イエスの救いは、我々人間を平安の中に置いてくださる。イエスの救いは、我々を神との和解の中に置いてくださる。イエスの救いは、一人ひとりの手を取って救い上げてくださる救い。「主よ、助けてください、わたしを」と叫ぶ者を救い上げてくださるお方。我々は、いつ如何なるときにも、主に助けを求めて良いのだ。どのようなときにも、主はすぐに手をつかんでくださる。すぐにそばに来てくださる。このような叫びを叫ぶ一人ひとりが救われるために、イエスは来てくださった。如何なる困難をも乗り越えて、来てくださった。十字架の苦しみを越えて、復活してくださった。このお方の前には、越えられない隔たりはない。このお方の前には、沈められない波もない。このお方の前には、救えない人間などいない。すべての人が、このお方の救いの対象。すべての人を救いたいと荒波を乗り越えて来てくださるイエス。すべての人をご自分の平安の中に置いてくださるイエス。

我らはこのお方によって、神の子として生きることができる。このお方によって、神の子の幸いを生きることができる。このお方が、我々のために十字架を忍んでくださったのだ。我々もまた、自分のためではなく、他者のために、自分を捨て、自分の十字架を取って、このお方に従う者でありたい。

そのような一人ひとりであるようにと、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。このお方と同じ形があなたがたのうちに形作られるようにと与えてくださる。今日与えられる聖餐に与り、このお方の力によって、キリスト者として生きて行く幸いを感謝しよう。我々は、救われた者。我々は、キリストが手を取ってくださった者。我々は、神の子の顕現に出会った者。あなたもまた神の愛する子として、生きて行くことができる。あなたもまた、他者のために生きることができる。このように生きる者としてくださった神に感謝して、この週も喜び生きて行こう。

祈ります。

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