「美しきこと」

2020年9月6日(聖霊降臨後第14主日)
マタイによる福音書15章21節~28節

「美しくない、こどもたちのパンを取ることは、そして小犬たちに投げることは」とイエスは言う。新共同訳で「いけない」と訳されている言葉はカロスというギリシア語で「美しい」や「調和が取れている」ことを表す言葉である。この言葉は、創世記の初めで神が天地を創造された際、創造したものをご覧になって「良し」と言われたときに使われている。ヘブライ語ではトーブという言葉であるが、それをギリシア語に訳した際にこのカロスが使用されている。ヘブライ語のトーブもギリシア語のカロスも共に「良い」と訳されるが、「美しい」や「調和が取れている」ことを意味している。美や調和は秩序とも関わりのある事柄である。イエスは、「こどもたちのパンを取ることは、秩序に反している、美しくないことである」とおっしゃったのである。この場合の「こどもたち」とはイスラエルの民のことである。救いのパンは、まずイスラエルに与えられた。しかも、イエスはその民の中の「失われた羊へと派遣された」とおっしゃる。その秩序を破壊することは神の派遣の意志に反するとおっしゃっているのである。イエスは神の前に義しいことをおっしゃっている。

我々は、この出来事を読む際に、どうしても人間的な次元で読んでしまう。そして、イエスに人間的な優しさを求めてしまう。それゆえに、このイエスの言葉を冷たい言葉だと思ってしまうのである。ところが、神の秩序に従った義しいことをイエスはおっしゃっているのだ。それが「美しい」ことなのだとおっしゃっている。「こどもたちのパンを取る」、「そのパンを小犬に投げる」というようなことは「美しくない」のだ。人間的に見ても、この状況は美しくない。美しいことは、神が「良し」としたまうことである。神の意志に従ったことが美しく良いことなのである。

我々が人間的な美を考えるときにも同じことが言える。我々は他者と比較してしまう。しかし、神はそれぞれに賜物を与えておられる。そこには神の秩序に従った美がある。神の秩序をそのままに受け入れて生きている存在は美しい。イエスはその姿を「野の花」、「空の鳥」に見ておられる。美しさは、調和ある世界を形作っている神の意志である。この意志に従うことこそが我々が神の被造物として生きるということである。そのとき、我々は美しい。あなたは美しい。あの人も美しい。それぞれに神が与え、置かれた秩序があり、調和を保つとき、美しいのだ。イエスは、この神の意志を第一とされた。それゆえに「こどもたちのパンを取ることは美しくない」とおっしゃるのだ。

このイエスの言葉を聞いて、カナンの女は答える。「はい、主よ」と。「ごもっともです。しかし」と新共同訳では訳されているが、「はい、主よ。なぜなら、また」が原文である。「なぜなら、また小犬たちは食べるからです、彼らの主人の食卓から落ちる欠片から」と女は答えたのだ。イエスの言う「美しさ」を肯定して言うのだ。「そうです、主よ。だから、小犬は食卓から落ちるパンの欠片を食べるのです」と。イエスの言う調和に従って答えている。小犬が食卓から落ちる欠片から食べるのは、調和があるからですと答えているのである。

小犬の食べ方にも美がある、調和があると女は答えた。その言葉にイエスは感心する。イエスがおっしゃる神の意志を肯定し、従う姿が女の答えにはあるとイエスはご覧になった。その姿も「美しい」のだとおっしゃっているようである。神の意志に従う姿は美しい。神は、異邦人を貶めているのではない。調和を保つことを求めているのだ。その調和を破壊するのが、人間の罪である。もちろん、人間が他者を貶めること、差別することは美しくない。与えられたものを独り占めするのも美しくない。しかし、神が定められた秩序は、差別ではなく、神の美なのだ。神の意志は神の美である。神の意志に従うことは神の美しさに従うこと。神の秩序ある調和に従うこと。ここにおいて、我々人間は美しく生きることができる。

この世において、人間が差別し、他者を貶め、自分だけがすべてを集めようとすることは美しくない。それぞれに与えられたものは分かち合うためにある。分かち合い、支え合うために、与えられたものを用いる。しかし、与えられる存在と与えられない存在もある。与えられた存在は、分かち合うために用いる。与えられない存在は、別の与えられたものを用いる。それぞれに与えられるものは違う。そこには秩序がある。まず、与えられた存在がいて、つぎに分かち合われる存在がいる。それが神が定め給うた秩序である。これを受け入れ生きるとき、我々は美しく生きることができる。

カナンの女は、この美しい秩序に従って、こどものパンを取るつもりはありませんと答えたのだ。取る必要はないことは明らかですと答えたのだ。なぜなら、小犬は食卓から落ちるパンの欠片から食べるのですからと。女は、パンの欠片で良いと答えたのであろうか。いや、女はすでにパンの欠片を受けたのだ。イエスは「美しくない」とおっしゃった言葉を、素直に、純粋に受け取ったとき、彼女はパンの欠片を受けたのだ。欠片から食べたのだ。そして、彼女は満たされた。娘の病気は癒された。女が、イエスの言葉に対して、「はい、主よ」と答えたとき、彼女は欠片を食べた。イエスの言葉を食べた。それゆえに、彼女から出てくるのは、神の意志に従った言葉である。美しい言葉である。

この出来事の前に記されている通り、我々の口から入るものは我々を汚すことはない。我々の内から出てくるものが我々を汚すということである。従って、彼女はイエスの言葉を神の恵みの欠片として食べた。その言葉が彼女の内で、美しく発酵し、神の秩序に従う言葉を語った。彼女が語った言葉は、彼女の心から出て来たのではない。イエスの言葉から出て来た。彼女が食べたイエスの言葉の欠片から出て来た。それゆえに、彼女は美しい言葉を語った。「はい、主よ」という言葉は、「ナイ、キュリエ」という言葉である。「ナイ」とは英語ではイエスであり、肯定の言葉である。「主よ、わたしはあなたの言葉の通りだと受け入れます」と女は答えた。そして、イエスの言葉の通りに、イエスの言葉に従って、イエスの言葉から出て来た言葉を彼女は語った。「小犬は、食卓から落ちる欠片から食べるのですから、こどものパンを取る必要はありません。主よ」と女は言ったのだ。その言葉をイエスは聞き、「あなたの信仰は大きい」とおっしゃった。そして、「あなたに生ぜよ、あなたが意志するように」と宣言された。

「生ぜよ」という言葉、ギノマイというギリシア語は、創世記の初めに神がおっしゃる「光あれ」に使われている。ゲネセトー・フォース「光あれ」とは「光が生ぜよ」である。つまり、イエスは創造の言葉を語り給うたのだ。女に対して、創造の言葉を語り給うた。「あなたに生ぜよ」と語り給うた。「あなたの意志するように」と語り給うた。この女の意志は、神の意志に従った意志である。神が起こし給うた意志である。使徒パウロがフィリピの信徒への手紙2章13節で言うように、「良き意志によって、意志し、働くことを働いているのは、神である」ということである。女は、神の良き意志によって、意志を起こされた。そして、イエスの前に来るように促された。この意志を起こされた神に従って、イエスは女に言うのだ。「あなたが意志するように、あなたに生ぜよ」と。イエスは、ここにおいて、神の創造の業を行っておられる。女は、神の創造の御業に与り、娘は癒された。我々のうちにも、神は働き給う。神が起こし給う意志が、我々をキリスト者としている。我々がイエスの許に来たのは神が起こし給うた意志に従ったからである。神の意志が、我々を救い給うた。この意志に従う信仰を起こし給うた。カナンの女のように、我々は美しく生きることができる。神の意志に従って生きることができる。

イエスは、ご自身の体と血を我々に与え給う。神の美しきこととして与え給う。神の秩序として与え給う。感謝していただこう。あなたは美しきことを生きるために造られた美しい人なのだから。

祈ります。

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