「ヨナの息子」

2020年9月13日(聖霊降臨後第15主日)
マタイによる福音書16章13節~20節

「幸いな者として存在している、あなたは、ヨナの息子シモン」とイエスは言う。「シモン・バルヨナ」とイエスは言うが、「バルヨナ」とは「ヨナ」の「息子」という意味のアラム語である。ペトロは「ヨナの息子」なのか。ヨハネ福音書1章42節では、「あなたはヨハネの息子であるが、あなたはケファと呼ばれる。それはペトロという意味である」と述べられている。しかし、ここではイエスによって「ヨナの息子」と言われている。おそらく、こちらの方が正しいであろうとも言われる。ここで、あえてイエスが「ヨナの息子」という呼び方をしているのは、この前の箇所でイエスに天からのしるしを求めるファリサイ派とサドカイ派への答えとして、「ヨナのしるし以外には与えられない」とイエスが述べた言葉とつながっているのであろう。

先にイエスが言った「ヨナのしるし」とは、預言者ヨナが天の父なる神によってニネベの人々に裁きが到来することを預言するように言われた出来事を指している。その際、ヨナはニネベとは反対の方向へ逃げた。そして、海に投げ込まれて、大きな魚に飲み込まれ、三日三晩魚の腹の中で過ごし、陸地に吐き出された。その後、ヨナは悔い改めて、ニネベの宣教に向かう。この出来事からイエスは「ヨナのしるし」以外には示されないと言ったのである。

ところが、この「ヨナのしるし」とは一体何かは分からない。三日三晩魚の腹の中で過ごして、吐き出される出来事が、イエスの十字架の死と復活を表していると解釈される。これが「ヨナのしるし」と言われているのか。だとすれば、ここでペトロの告白を聞いて、イエスが「ヨナの息子シモン」と呼ぶのは、この「ヨナのしるし」と関係しているように思える。シモン・ペトロはヨナのように、神の意志を拒否し、陸地に吐き出されるわけではない。しかし、ペトロがイエスを知らないと言うことを示唆しているのかもしれない。ペトロのイエス否認が、ヨナの神の意志に従わない姿と同定されているのである。しかし、最終的には、ヨナが神の意志に従わせられたように、ペトロも十字架と復活の後、イエスに従う者とされるということであろう。一旦、否認した後に、従うということが「ヨナの息子」とイエスがあえて呼ぶ意味ではないか。一度否認した者が、肯定する者へと変えられる。その時には、以前よりも神の意志に従う在り方が強くされている。それは、否認する自らの力と肯定する自らの力を捨てているからである。

ここで、イエスがペトロを「幸いな者」と言う言葉が示しているのは、「天の父の啓示」がペトロの上に生じたことによる。イエスを「キリスト」と告白することは、「天の父の啓示」によるとイエスは言う。我々人間がイエスを「キリスト」と認めるのではなく、天の父によって啓示されて、認めさせられるのである。この啓示が我々の信仰告白の基礎である。これを代表するのが「ヨナの息子シモン」。彼は、神の意志に従って、告白する。神の意志に従って、宣教する。神の意志に従って、罪を赦す。それが「鍵の権能」である。

イエスが「鍵の権能」を授けたのは、「ヨナの息子」のようなシモンに対してであった。否認した者が神によって造り替えられ、神の意志に従う。そのような者が「鍵の権能」を与えられる。それは、ペトロの意志で「鍵を開け」、「鍵をかける」ということではない。ペトロも神の意志に従って、開けるべき者に鍵を開ける。閉めるべき者に鍵を閉める。それが「縛り、解く」権威である。「鍵」が示しているのは、「縛り、解く」権威であるが、ペトロの恣意に任されているわけではない。ペトロがここで神の啓示によって告白した在り方と同じく「縛り、解く」ということである。それはまた、ペトロという名が「岩」ではなく「小石」であることと通じている。

「岩」とはギリシア語でペトラである。これは「大岩」を表している。一方、ペトロとは「小石」のことである。ペトラが女性名詞だから、男性名詞のペトロにしたのではないかという意見がある。しかし、ギリシア語の意味を純粋に理解すれば、「この岩」とイエスが言うペトラとはペトロのことではないと考えるべきであろう。むしろ、ペトロは小石であるが、大岩なる神の上に建てられた教会の小石だということではないか。そうであれば、すべてのキリスト者が小石でありながら、大岩なる神の啓示の上に教会として形作られることになる。そのとき、小石である一人ひとりは、天上の神の意志を掲示されて、教会を形作る存在としてこの世から呼び出される。それがエクレーシア教会なのである。

それゆえに、教会を形作る小石たちは、互いに縛り解く権威を与えられている。天の父なる神の意志に従って、縛り解く。罪を縛り、罪を解くとすれば、我々は互いに罪を戒め合い、罪を赦し合うということである。それが教会エクレーシアである。このような教会は、常にヨナの息子たちとして生きていくであろう。天からの啓示を受けて、一旦は拒否することも起こるが、最終的には啓示に従うのである。教会は、この世に生きているがゆえに、この世に流されることも起こるであろう。しかし、その罪を戒めるみことばによって新たにされ、罪を解く関係を構築していく。この世に流されても、神の意志が我々を新たにしてくださる。これが大岩なる神の上に建てられた教会である。従って、罪深き者たちであるにも関わらず、神の意志を宣べ伝える器とされるのである。

自らの力に頼って宣教するのではない。神の力、神の啓示に従って宣教するのである。我々キリスト者は、自分を捨てた者たち。自分の力に頼らない者たち。自分の十字架を取る者たち。イエスに従う者たち。我々の宣教は神が啓示し給う言葉を宣教する。預言者ヨナのように神の言葉をそのままに宣教する。あの敵国ニネベの住民が悔い改めることを望まないヨナが、それでも宣教する。そして、悔い改めたニネベの人たちを前に、落胆するヨナ。しかし、神はそのヨナに、彼らニネベの人々さえも神の愛する存在なのだと告げる。我々キリスト者は、このようなヨナの姿に自らを見出す者である。

我々も人間的に考えるとき、この人には教会に来て欲しくないとか、悔い改めずに滅びて欲しいとか考えてしまうことがあるであろう。しかし、神はそのような人に宣教せよと命じ給う。悔い改めるべきは自分自身であることを、神は教えてくださる。否むべきは自分なのだと教えてくださる。これが神の愛であり、神の啓示の言葉である。ヨナの子たちは、神の啓示によって造り替えられる。ヨナの息子たち娘たちは、神の意志に従わせられる。自分の思いとは違うところへと導かれて行く。自分の思いを捨てざるを得ないところへと導かれる。我々は、このような信仰的出来事を経験してきた者たちである。ペトロはその代表。

我々の歩みは、躓き倒れ、起こされる歩みである。挫折と絶望を経験しつつも、神があなたを起こしてくださった。悲しみの中からあなたを起こしてくださった。苦しみの中からあなたは起こされ、喜び生きる道を歩まされている。それが「ヨナの息子」、「ヨナの娘」の歩みである。躓いてもなお、起こしてくださるお方がいる。これが、我々の幸いである。我々キリスト者は、幸いな者たち。ペトロと同じように、幸いな者たち。小石にも関わらず、大いなる岩の上に据えられた者たち。安心して、生きる基礎の上に据えられているわたしを喜び生きることができる。

幸いとは、神がわたしを支えてくださると信頼できること。幸いとは、神がわたしを造り替えてくださると希望を持つこと。幸いとは、神の意志がすべてを善き方へと導きたまうと信じる信仰。このようなところに生かされていることを感謝しよう。感謝して、神の言葉、いのちの言葉に喜んで耳を傾けよう。あなたは聴く耳を与えられている幸いな者。自分からは聴くことができない大いなるお方の言葉を聴くようにされている存在。この幸いをペトロと共に喜び、感謝して、生きていこう。ヨナの息子、娘たちよ、あなたがたが教会なのだ。あなたがたを呼び出し給うたお方の力によって、あなたがたを通して、幸いが広がって行きますように。

祈ります。

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