「受容する低さ」

2020年9月20日(聖霊降臨後第16主日)
マタイによる福音書18章1節~14節

「もし、あなたがたが向きを変えて、こどもたちのように生じないならば、あなたがたは決して入らない、天の国へ」とイエスは言う。新共同訳は「心を入れ替えて」と訳しているが、この言葉はギリシア語でストレフォーという言葉で、向きを変えること、方向転換することを意味する言葉である。生きている方向を変えることだと理解して、心を入れ替えると訳しているが、単に心を入れ替えることではない。もちろん、心を入れ替えれば、生き方も変わる。生きて行く方向も変わる。そのような意味でイエスはおっしゃった。天の国の方へと向きを変えること。天の支配の方向へと向きを変えることをイエスは求めておられる。

天の国、天の支配が向いている方向とは天の父なる神が向いている方向である。それが「自分を低くする者たち」、つまり「こどもたち」の方向だとイエスはおっしゃる。どうして、このようなことをイエスは言い出したのか。弟子たちが「天の国において、誰が一番大きいか」とイエスに聞いたからである。この問いが出てくる背景には、この前の箇所で神殿税の話があったからである。イエスはペトロにこうおっしゃった。「王の息子は税や貢ぎ物を収める必要はない」のだと。そこから、天の王国の話を連想して、息子の次に、誰が一番大きいのかという質問になったのである。

人間は、一番大きいものを求めてしまう。そうなることができるのはどういう人なのかと考えてしまう。自分がそのような存在になり得るのであれば、なお一層、イエスに従う競い合いが激化するであろう。弟子たちは、この世の競い合いの中で落ちこぼれた者たちであるが、今イエスの弟子とされている。イエスが天の父なる神の息子であるならば、天の国の中で一番大きくなることに一番近いところに自分たちはいると思っている。それゆえに、その中で誰が一番大きいのかとイエスに問うのだ。この問いを聞いて、イエスは「向きを変えて、こどもたちのように生じないならば、天の国に入ることは決してない」のだとおっしゃった。従って、弟子たちが生きている方向を変えなければならないとおっしゃっているのだ。

弟子たちは大きくなることが一番良いという価値観の中にいる。その価値観の中で、天の国を考えている。しかし、天の国は、天の父なる神が向いておられる方向に向かっている。その方向に向きを変えることがなければ、天の国に入ることはないと言う。その方向が「こどもたちのように、自らを低くする方向で生きる」という方向だとイエスはおっしゃる。ここで使われている「低くする」というギリシア語タペイノーは、謙遜と訳される言葉であるが、原意は低くするである。こどもたちは自分を低くしているのか。謙遜なのか。それはどのような姿なのであろうか。

自分を低くする者を受け入れることが、わたしを受け入れることだとイエスは続けている。つまり、低くするということは、低い存在を受け入れることである。低い存在を受け入れるには、自分をさらに低くしなければ受け取ることができないということである。これは、この世の自然の世界においては当たり前のことである。すべては低いところに流れていくからである。高いところに流れる川はない。風も気圧の低いところに流れる空気の川である。神が造り給うた自然の世界は、低いところに流れていくように造られている。低いところに、さまざまなものが集まるものである。しかし、人間は自然とは反対の方向で生きているがゆえに、高いところに集まる。高いところを目指して集まる。それが人間が生きている方向である。この方向から向きを変えて、自分を低くするこどもたちのように生じることで、天の国に入るのだとイエスはおっしゃっている。

我々人間の価値観では、低いものは価値がないものである。ただでもらうものは価値がないものである。高価なものはただではもらえない。誰もが獲得できるものではない。それはたった一人しか持つことができないかもしれない。それが人間が「大きい」と考える価値である。ところが、天の国の価値は小さく低いところへと向かう。天の父が見ておられるのも小さく低い存在である。そのような存在は、天の父から無償で与えられるものを素直に受け入れることができる。低いがゆえに、素直に受け入れることができる。自然の法則に従って、低きに流れてくる川の水を受け取ることができる。それが低さを自らのものとしている存在である。

低きところには、神の恵みが流れてくる。小さき者に、神の眼差しが注がれている。百匹の羊のうちの一匹に目を留められるのが神である。小さく、低い存在に目を留めてくださるのが神である。天の父が向いておられる方向は、父が創造し給うた世界の低きところ、小さき存在。それが、イエスが指し示す天の国、天の支配の価値観である。それゆえに、自らを低くする者でなければ、天の国の価値に生きることができないのだ。天の国の価値に生きるためには、大きさを求める価値から方向転換して、小ささを受け入れる価値に生きる必要があるとイエスはおっしゃるのだ。

しかしまた、この小ささ、低さに目を向けていれば、大きくなることができると思うならば、結局大きさの価値観の中で生きることになる。低さ、小ささは、大きくなるための跳躍台ではないのだ。小ささ、低さこそ、天の国の価値なのだ。価値観が逆転して、小ささ、低さの競争になるならば、結局は元の木阿弥である。競争とは、自分の力で獲得する方向に生きることであるから、受容する低さとはまったく反対の方向に生きることである。従って、競争は結局、大きさの価値の中でしか機能しないのである。低さの価値の中では、低きものを受け入れるために、さらに低くなる必要があるのだから。低きに流れてくる神の恵みをいただくために、さらに低くなる必要があるのだ。そこにこそ、イエスの十字架が立っている。

徹底的に自らが大きさも小ささも競わない地点にこそ十字架が立っている。十字架を競うことはできない。自分の方が苦しんでいるという競争をする人たちもいる。それは、真実に苦しんでいるのではない。競うために苦しんでいる。競うために低くなっているとすれば、低くなっていないのだ。高くなっている。大きくなっている。従って、高さ、低さ、大きさ、小ささを競い合うとすれば、何も受け入れていないのである。何も受容していないのである。

受容とは、一般的には上に立つ思想になりがちである。受け入れてやると思い上がることにもなる。それは受容ではない。受容とは、イエスがおっしゃるように「こどもたちのように生じる」ことなのである。こどもたちは素直に、純粋に、何かをいただこうと低くなっている。ただ純粋に受け入れる。低くなって受け入れる。それが「受容する低さ」なのだ。低くなければ受容することはない。低くなければ、恵みを受け取ることはない。神が注いでくださる恵みを受け取る存在は、自分の力で獲得する方向から転換させられている。自分の力ではどうにもしようがないことを受け入れさせられている。その在り方に従って、すべてを受け入れて生きる。それが自分を低くする存在なのである。

イエス・キリストが十字架を引き受けてくださったのは、ご自分を低くなさったからである。我々罪人の罪を引き受けてくださったということは、我々罪人よりも低くなってくださったということである。どうして、そこまでしてくださったのか。イエスは、神の恵みをいただく地点に立っておられるからである。天の父の息子であるということは、父から無償で与えられるものを素直に受け入れるということである。父を信頼して、善いものをくださると信じて、受け入れるということである。それが十字架を引き受け給うたイエスの在り方である。その在り方は聖餐において極まっている。ご自身を与えるお方は、最も低くなることによって、神の恵みを受容し、供給するお方とされたのである。このお方を通して、我々は神の恵みに与ることができる。イエスの体と血に与って、受容する低さが我々のうちに形作られる。感謝していただこう、神の恵みを。

祈ります。

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