「一つの声に」

2020年9月27日(聖霊降臨後第17主日)
マタイによる福音書18章15節~20節

「再び、わたしはあなたがたに言う。もし、あなたがたの内の二人が共に声を出すなら、地の上で、彼らが願い求めるすべての事柄について。それらは生じるであろう、天におけるわたしの父から」とイエスは言う。先に語ったことを別の言い方で語っておられる。先には、兄弟の罪についての教えが語られていた。最終的に「教会」において「縛り、解く」ことが語られていた。教会は「二人」以上の複数のキリスト者によって形成される。その教会における判断は、天の父の意志に従って行われるということである。その中心にはキリストがおられるとも言われている。二人以上の複数の存在が、中心におられるキリストに従っている出来事。これが教会なのである。それが「共に声を出す」と言われていることである。

 「共に声を出す」と訳したギリシア語は、スュンフォネオーという言葉。交響曲シンフォニーの語源であるが、さまざまな響きが共に響くということであり、共に響きつつ調和することを意味している。二人の者が共に声を出すときに、一つの声となるように出すことで調和した声となる。同じ音で出すか否かは別である。別々の音でも和声を作ることができる。そのような意味で「共に声を出す」とは、同じ音を出すことではなく、一つの声となるように調和する声を形成することである。それが教会を表してもいる。さまざまな声が調和して、一つの声となるのが教会なのである。皆が同じ音を出す必要はない。それぞれの音が、全体として一つの声になる。その中心にキリストがおられる。いや、キリストがおられることによって、一つの声になると言えるであろう。

我々が、誰かの罪を判断するときにも、皆が同じ方向から考えるのではない。別々の方向から見て、それぞれの視点から判断する。実行された罪が如何なることであったかを複数の視点から見定める。こうしてのち、全体として調和のある結論が出るであろう。一つにまとまらないのではないかという危惧もあるかもしれない。まとまらない場合は、一つに決めることができないという判断になるであろう。それはそれで良いのだ。一つに決まらないことも調和であろう。一つの声になることは、一つに決めることではない。一つに決めることができないことを受け入れるならば、一つの声に調和すると言えるであろう。

この一つの声は、究極的にはキリストの声に調和することであり、キリストの声になることである。一つの声は皆が同じ声ではないがゆえに、一つの声になる。縛り、解く権威は、一つの声である。キリストの声を聞く群れにおいて生じる声である。キリストの声を聞かないならば、一つの声になることはできない。キリストの言葉を聞く群れでなければ一つの声として生じることはない。キリストの生涯、キリストの生き方にそれぞれの魂が結び合わされることによって、一つの声になる。キリストの生が一つの声を作り出す。そこにおいて、我々は教会として生きることができるのである。

また、ある時には、他者の声に耳を傾け、他者の中で歌いたまうキリストの声を聞く。他者の声がキリストの声として聞こえてくるときも、我々は一つの声になるであろう。戒めもキリストの声である。慰めもキリストの声である。憐みもキリストの声である。愛もキリストの声。喜びもキリストの声。希望もキリストの声。十字架のキリストの声が我々を包み、我々が一つの声になるように整えてくださる。このような声を響かせる教会であるようにとイエスは弟子たちに語ってくださった。縛り、解く権威によって、我々は互いに戒め、互いに赦し、互いに愛する。一つの声として愛し、赦し、戒める。これが調和した和声であり、我々が目指すべき声である。

そのような一つの声になるには、どうすれば良いのか。もちろん、一人ひとりがキリストの声に耳を傾け、聞き従うことである。キリストの声はどこに響いているのか。聖書の中に、みことばの中に響いている。その声を聞く者は、キリストの声に耳を開かれている存在である。キリストの声が響いてきたとき、我々はその声に耳を開かれた。今まで聞いたことのない声を聞いた。今まで誰も聞かせてくれたことのない言葉が聞こえてきた。その声に耳を開かれ、その言葉を受け入れた。一般的思考では理解できない言葉。一般的耳には響かない声。特別な言葉、特別な声。その声と言葉に導かれ、我々は教会へと入って行った。一つの声の中に入って行った。一つの声が響いている世界に入って行った。我々は、キリストの声によって、この世界とは違う和声の世界、違う声を響かせている世界を知ったのだ。そこに、自分の声を持って参与することができると知った。自分自身を否定されることなく、受け入れられ、一つの声を形作る者とされた。我々が歌う讃美は、神の愛が響き出す讃美。我々が祈る祈りは、神の憐れみを乞い求める祈り。我々が生きるいのちは、神のいのちの現れ。天に響く神の声、神の独り子の声が我々を包んでくださる。愛と恵みと憐れみの声に包まれて、我らも神を誉め称える。

礼拝において、我々は一つの声に形作られる。みことばが我々を形作る。教会として、キリスト者として、神のこどもとして。この世界に、一つの声を届けるために、神は召し出してくださった、我々を。神が一つの声にしてくださった。神が響かせてくださる。一つの声を響かせてくださる。この世界が、一つの声になるようにと響かせてくださる。

我々がこの世に生きている間、我々はこの世に派遣された声として生きる。神の子として派遣される。神の愛を知った者として派遣される。この世界が、愛によって一つの声になるために、我々は仕えていく。あなたは、遣わされたところで、神の声として生きる。一つの声の素晴らしさを伝えるために生きる。自分の声と他者の声が一つにされる新しい世界を伝えるために生きる。そのような存在は、どこにおいても神を讃美しなければならない。どのような状況にあっても神に感謝しなければならない。神の愛は、このわたしの上にいつも注がれていると証しなければならない。神の愛を証することが、一つの声に友を招く道になる。あなたの声も加われば、また新しい声が響くと、我々は招く。あなたの声も神があなたに与えた声だと招く。それぞれに与えられた賜物を与え合い、受け入れ合う教会が形作られるように、我々は派遣されていく。

我々が生きる世界は、いくつもの声が響いている。それぞれの立場によって声の調子は違ってくる。それらも神は一つにすることができるのか。我々の世界が一つの声を聞くならば、それぞれが生かされる世界が来るであろう。我々の罪をそれぞれに認める世界が来れば、一つの声になるであろう。神が造り給うた世界をバラバラにしているのは、我々なのだと認識すれば、一つの声になるであろう。神は、我々人間を愛しておられると知れば、一つの声に耳を傾けるであろう。我々の世界にある多くの声が、一つの声にされるならば、一人ひとりが認められる世界が来るであろう。そのような世界を祈り求めて、我々はこの世界で生きていく。キリストに従って、生きていく。キリストの声を聞きながら生きていく。

あなたもあの人も、神の子である世界。それがイエスの父なる神が創造された世界。神の子たちの讃美の声が響く世界。それは神ご自身が求めておられる世界である。そのために、神は世界を創造されたのだから。この地上に生き、存在するすべてのものが一つの声になって、神を讃美するために、神は世界を創造された。

この世界に置かれている存在の声は、どれ一つとして不要な声はない。神ご自身が聞いてくださっている声である。それぞれの叫び、それぞれのうめき、それぞれの喜び。それらが一つとなっていくとき、我々の世界は互いに受け入れ、互いに与える世界とされていくであろう。その中心に、キリストがおられる。キリストが一つの声を創り出す。一つの声を形作る。一つの声にすべてが溢れる。あなたもあの人も、神の善きものをいただいて、自分らしく生きることができる。この世界を祈り求めながら、日々キリストに従って、歩んでいこう。

祈ります。

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