「憐れみの赦し」

2020年10月4日(聖霊降臨後第18主日)
マタイによる福音書18章21節~35節

「何回、罪を犯して、わたしへと、わたしの兄弟が、そしてわたしは彼を赦すのでしょうか」とペトロはイエスに問う。何回まで赦すということが「赦し」なのか。これが問われている。赦しは憐れみであると、イエスはたとえで語っておられる。赦すということは、相手の苦しみを共に苦しむ憐れみから生じるのであって、共苦のない赦しはないということである。相手を思いやる心。相手の苦しみを自分の苦しみと感じる心。その心があってこそ赦しは成立するとイエスは言う。このような赦しは我々人間からは生じ得ないということでもある。従って、我々人間は赦し得ない自分であること、憐れみを持ち得ない自分であることを知ってこそ、神の力によって赦しに至ると言える。それが、イエスがたとえで語っておられることである。

たとえの中の主人は、最初の下僕を「憐れに思って」、彼の負債を赦したとイエスは言う。この「憐れに思って」という言葉は、スプラングニゾマイという言葉で、自分のはらわたにおいて共感するという言葉である。お腹が痛くなるくらいに、相手の哀れさを感じ、憐れむということである。それは、「赦してやる」ということではない。その人を赦すことで、自分も救われるような赦しである。それが憐れみなのである。

憐れみは、憐れむ相手に与えるだけではなく、憐れむ自分自身も癒され、救われる出来事なのである。その憐れみを受けた存在が、自分の同僚に対して、まったく憐れみを感じず、相手を牢獄に入れる。憐れみを受けたにも関わらず、その人は憐れみを受け取ってはいない。自らのうちに憐れみを受け入れてはいない。おそらく、「上手く行った」と思い、自分は解放されたと感じたであろう。そこにおいて、赦してくださった主人の思いは無に帰している。無視され、無駄になっている。それゆえに、その人は憐れみを受け取ってはいない。得した程度の思いであったがゆえに、さらに得をしたいと取り立てる。結局、人間はこの程度なのだとイエスはおっしゃっている。主人から、教えられなければ、思い至らない。そして、牢獄に入れられなければ分からない。自らが失ったものが分からない。これが人間の罪の姿なのだとイエスは教えてくださっている。

我々が、何回赦すことができるかを問うている間は同じなのだ。自らが赦す立場であり、赦されるべき負債などないと思い込んでいる。しかし、我々人間はすべてを神に負っている。いのちも、身体も、霊も、魂も、すべて我々が造り出したものではない。神が与えてくださったものである。しかも、無償で与えてくださったものである。それにも関わらず、自らのいのち、自らの能力、自らの権威を、自分で造り出したかのように思い込む。そして、憐れみを持つよりも、自助努力が足りないとうそぶく。自分はこれだけ苦労してここまで来たのだと思う人間ほど、憐れみを知らない。自分の小ささ、自分の愚かさを知ることはない。まして、罪深さなど考えようもない。自分は正しいと思い込んでいるからである。法に従って、適切に対処したと、最初の下僕も思っていた。自分は法に逆らって、赦されたにも関わらず、自分は法を遵守すると主張する。こうして、我々は自分の正しさを主張し、憐れみを受けたことを忘れてしまう。

確かに、その人も努力したであろう。しかし、返せなかったのだ。それでも、これからもっと努力して返しますと主人に言った。その哀れさを思い、主人は負債をすべて赦してくださった。主人が憐れんだのは、その人の愚かさ、至らなさ、罪深さを知りつつ、憐れんだのだ。その人の思い込みも含めて、憐れんだ。すべてを赦したということは、その人の罪も赦したということである。それなのに、その人が同僚を獄に送ったことに対して、主人は怒る。赦したのであれば、怒る必要はないではないかと思える。その人が、そのような行動に出るであろうことも承知の上で赦したのではないのか。しかし、無償で受けたものは、受けた存在が同じように実行することを求めているのである。

無償で受けたものは負債である。従って、真実に受け取った存在は、他者にも同じように与えるであろう、無償で。それを求めているのが、無償の赦しであり、憐れみである。すべて返しますと言ったにも関わらず、返さなくて良いということになると、自分は何の負債もないと思い込む。それが間違いである。我々が罪赦されたということは、罪がなくなったことではない。罪があるが、赦されたのである。負債があるが赦されたのである。この赦しは、憐れみであるがゆえに、憐れむ者の赦しを自分の内に受け取ることで生きる。しかし、憐れみを捨てた者は、受け取らず、外面的にやり過ごしただけなのである。それゆえに、憐れみに包まれることなく、憐れみに生きていただくことなく、罪人のままである。その人が行うことは、罪深いままである。

一方、罪赦されたことを自分の内に受け取り、憐れみを生きる者は、罪深い自分であることを弁えて、自分を抑制し、謙虚に生きる。それが、憐れみを受けた者である。最初の下僕は憐れみを与えられたにも関わらず、憐れみを受けてはいなかったということである。それゆえに、憐れみは通り過ぎ、彼の罪による負債が復活する。我々が罪赦された者として生きるということは、憐れみがあなたのうちに生きるときなのである。

憐れみを実行できない者は、自分の正しさによって、自分をも裁くことになるのだ。同僚を自分の正しさによって裁いた下僕は、結局同じ裁きを受けざるを得ない。彼が、同僚を憐れんでいたならば、彼は裁かれることなく、憐れみに包まれていたであろう。それをやり過ごしたのは、彼の罪なのである。それゆえに、彼の罪の負債は復活する。もちろん、我々罪赦された者にも、罪の負債は眠っているだけで、復活する可能性が残っているということである。憐れみの赦しを生きていないならば、罪の負債は復活するであろう。あなたの罪を、あの十字架で働かなくしてくださったイエスは、あなたを憐れんでくださったのだ。働かなくされている罪が眠っている罪である。しかし、あるきっかけによって、活性化される。それが、自分を主体としてしまうときである。自分の正しさを絶対化するときである。自分が法に従って適切に対処していると思い上がるときである。法は不正を正すために定められている。自分の利益のために、法を使用する者は、法によって裁かれる。イエスのたとえは、そのような意味でもある。神が、我々を赦し給うたのは、法に従ってではない。法を無効にして、ただ憐れんでくださったのだ。法によってではなく、神の憐れみの意志によって、赦されたということである。

このような存在であることは、我々の生まれにも関わっている。生まれることは、我々が正しいから、法に従っているから生まれるのではない。ただ、神がこのわたしを生みたいと願ってくださり、わたしがわたしであることを生きて欲しいと願ってくださったからである。それゆえに、我々は自分自身を生きるとは言え、神の意志によって赦されて生きている。神の意志が我々を憐れみ、我々と同じ痛みを感じ、我々と同じ苦しみを負ってくださる。この神の意志をまっすぐに受け入れる者が、罪赦された者、キリスト者である。

我々は、何回までと数えることができない憐れみの赦しをいただいている。何回までと数える限り、我々は自分も同じように数えられている。数えないならば、数えられない。赦すなら、赦されている。憐れむならば、憐れまれている。我々が生きる生そのものが、我々を救う。我々が神の憐れみに生きるならば、我々は憐れまれている者として、他者を憐れみ、自らを救うのである。神もご自身が憐れむことによって、我々と一つとなって、我々の救いを喜んでくださっている。十字架のイエスは、その救いをご自身の体と血において、我々に与えてくださる。この聖餐を感謝していただこう。あなたは憐れみの赦しを受けた者。憐れみを受け入れて生きることができる。神の意志を生きてくださったイエスの体と血を通して、イエスご自身があなたの魂と一つとなってくださるように。

祈ります。

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