「義を与える善」

2020年10月11日(聖霊降臨後第19主日)
マタイによる福音書20章1節~16節

「もし、義しいものであるなら、それをわたしは与えよう、あなたがたに」とぶどう園の主人は言う。「ふさわしい賃金」と訳されている言葉は、「義しい」ディカイオスという形容詞である。二番目の農夫たちを雇った主人は、賃金を明示してはいない。ただ「義しいものを与えよう」と言っているだけである。その義しいものとは、主人が14節で言う言葉が示している。「わたしは意志する、この最後の者にも、あなたとまた同じように与えることを」と。つまり、主人の意志が「義しい」ものである。

さらに、15節では不平を言う最初の者に、主人はこう言っている。「わたしに許されていないのか、自分のものにおいて、わたしが行うことを意志することが。」と。また、「あるいは、あなたの目が悪であるのか、わたしが善であるがゆえに」とも言っている。主人の善は、主人の義である。主人の義しさを与えるのは、主人の善なる意志である。その意志を悪だと見る最初の農夫の目は間違っていると主人は言う。あなたの目が悪であるからだと。

ここでは働きの量が義の基準ではない。主人の意志だけが基準である。その基準は、主人の善から生じる。主人の義はこの善から生じ、与えられる。ここでは一般的善ではなく、主人の世界における主人の善と、そこから与えられる義が語られているのである。神の国とは、神の善から生じる義を与える世界なのだと、イエスはおっしゃっていることになる。ということは、神の善を信じなければ、義も信じることができないことになる。神の善を信じないことが「悪」だと言われている。神の義を与える善なる神の意志に、自分の義を対向させるとき、悪となる。

ぶどう園の主人は、自分の善なる意志において、最後の者にも同じように与えたいと願った。その意志が善であり、義を与える善なのである。神ご自身の義しいものを与える善き意志。それが神の国であるとイエスはおっしゃっている。この神の国の原理に従わず、自分の義を立てて、神の国に入ろうとすること、あるいは神の国を奪おうとすること、それがたとえで語られている最初の者の在り方である。このような悪は、最終的にぶどう園を奪うことへと発展するであろう。それが人間の義しさにおいて、神の国に入る資格を得ようとする立場となっていく。また、人間が神の国を作ることができるという思い上がりにもつながっていくであろう。

人間の義は、神の義ではない。人間の善は、神の善に対向する悪となる。たとえで語られている通り、自分に与えられた分を受け取ることだけが人間の善なのである。人間は義を作り出すことはできない。義を与えることもできない。人間は義を受けるだけである。神の善から与えられる義を受けるだけなのである。そのように生きることが、信仰である。

信仰は、見えない事実を確認する。見えない神の善を確認する。神の善がすべてを支配していると信じる。そこにおいて、我々は神の国に入っている。神の国の中で生きている。我々に与えられるものは、神の善から与えられる義である。義しさは、神の善き意志である。こう信じるとき、我々は神の善なる世界で義しく生きることができるであろう。

神の善なる世界においては、最後の者にも同じように与えたいと願う神の意志が貫徹される。自分の分もまた、神の意志が与えてくださった義しい分だと受け取る。それだけで、我々は神の国に生きることができる。これを越えてしまうとき、我々は悪となる。その悪しき目は、妬みの目である。他者を妬むことが悪である。

ここで最初の者が妬んでいるのは、最後の者である。最初は、仕事を与えられたことを喜んだであろう。広場に残された者たちを尻目に、自分たちは選ばれたと喜んだであろう。しかし、最後になって、すべての者が同じ賃金であることに妬みを覚えた。それが悪である。妬みは、我々の生を阻害する。他者の幸いを喜ぶことができなくなる。最後に残された者たちも同じように賃金をもらうことができて良かったとは思わない。自分の働きと比較して、あいつらは何もしていないのにと思う。こうして、我々の目は妬みをはらみ、悪しき目となってしまう。

妬みが生まれるのは悪からである。妬みを生み出す悪と、義を与える善。人間の国と神の国の違いはここにある。悪しき自分の意志に支配されるとき、人間は妬みを制御することができなくなる。反対に、神の善き意志から与えられる義を受け取るとき、我々は妬みに支配されることはない。むしろ、他の人にも義が与えられるようにと祈るであろう。広場に残された者たちのことを思いながら、彼らにも義が与えられるようにと祈るであろう。祈りながら、働くであろう。そのとき、最後の者たちが義しい賃金を与えられることを共に喜ぶであろう。

義しい賃金とは、一日の生活が保障される賃金である。一日の仕事量に対する賃金ではない。主人は、一日の生活が保障される賃金を与えたいと願った。それが主人の善なる意志である。生きることができるだけのものを同じように与えたいという意志が、神の意志なのである。この意志によって、我々は日々守られ、日々義しい分を与えられている。それを他者と比較するとき、妬みが生じる。我々の目が悪となる。これを戒め給うのはイエスの言葉である。「あなたのものを受け取って、行きなさい」とおっしゃる言葉である。わたしの分を受け取ることが、主人の善なる意志に従ったわたしの義である。主人が与えたいと願ってくださったものを受け取ることだけが義なのである。従って、義は与えられるものであり、獲得するものではないということである。

与えるお方が主体でなければ、義を受け取ることはない。与えるお方の善を信じなければ、義を受け取ることはできない。神の善なる意志を信じることが信仰である。自分に起こってくることが悪に思えても、神は義しいものを与え給うと信じる。自分が損をしていると思えても、神は義しいものを与えておられると信じる。神の善なる意志を信じる。そこにおいて、我々は自分の価値の世界ではなく、神の価値の世界に生きることができる。

神の価値こそが義であり、神の善こそが神の基準である。神の基準である神の善がすべてを義しく実行する。この世界を人間が作ることはできない。人間が自分の価値を捨てて、神の価値の中で生きるようにとイエスはおっしゃった。「自分を捨て、自分の十字架を取り、わたしに従いなさい」と。十字架は神の価値である。神の善である。神の義である。この十字架の下で、我々は真実に善である神の意志を信じ、神の義を受け取ることができる。イエスは、ご自身の十字架を通して、この世界を開いてくださった。それゆえに、我々は常にイエスの十字架を仰ぐ。十字架を仰ぐことによって、神の義を与える神の善を信じることができる。

あなたに与えられているものは、義しい分である。神が善きものとして与え給うた分である。自分のものを他者のものと比較することはない。比較において、妬みに支配されるのだから、比較してはならない。最初の者も、主人だけを見ていれば、妬むこともなかったであろう。最後の者を見たがゆえに、最後の者との比較に走ったがゆえに、妬みに支配されてしまった。我々罪人は、簡単に妬みに支配されてしまうのだ。それゆえに、まっすぐに神とわたしの関係だけを見ることが必要なのだ。神は、あなたに顔を向けておられる。神の御顔をまっすぐに見るだけで良い。あなたは愛されている。あなたは顧みられている。あなたは与えられている。神の義を与えられている。神の善なる意志によって与えられている。神の国に迎えられている。それだけを見つめつつ、歩み続けよう。あなたの生活、あなたのいのちを保障してくださるのは神なのだ。神の意志、神の義があなたの存在の根拠。あなたという存在を造り、あなたにすべてを与え、あなたの人生を守り給うのは神なのだ。ただ神を見上げ、イエスの御跡に続く者として、歩み続けよう。

義を与える善なる神が、あなたの神、あなたの救い。あなたの義である。広場に立ち尽くす者をも憐れみ給う神の世界に迎え入れられていることを喜び、共に生きていこう。善なる神の世界の中で、義しいものをいただいて。

祈ります。

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