「神の生成」

2020年10月18日(聖霊降臨後第20主日)
マタイによる福音書21章33節~44節

「それは生じさせられた、隅の頭として。主のもとでそれは生じた」と詩編118編22節、23節を引用するイエス。聖書に書かれてしまっていることを読んだことがないのかとイエスは問う。「それは驚くべきこととして存在している、わたしたちの目において」と詩編の作者は歌っている。イエスが語ったたとえは「家造りが捨てる」という行為を覆す神の御業を語っているということである。神がその出来事を生成した。神の出来事、神の御業を覆すことは人間にはできない。神が生成したものを、自分たちのものにしようとすることが、当時のユダヤ教の中で行われていたことだとイエスは批判している。しかも、隅の頭は、最終的なイエスの十字架と復活を暗示している。つまり、イエスの十字架と復活は神の生成した出来事だということである。

このたとえを語るイエスは、未だ十字架と復活を経験してはいない。しかし、神によるこの世への派遣がどこに向かうのかをご存知で、このたとえを語られた。捨てられることが十字架であり、「隅の頭」として生じることが復活である。ということは、神の家を最終的に確かなものとすることがイエスの働き、いやイエスご自身だということである。これは神の生成であり、神の権威がそれを実行するということである。

イエスがこのたとえを語られたのは、祭司長や長老たちがイエスの権威を問うたことに端を発している。彼らは洗礼者ヨハネの洗礼がどこからのものとして存在したのかについて答えず、イエスもご自分の権威については答えなかった。彼らが答えないのは、分かっていて答えなかったことであり、イエスを拒絶することだけが目的であり、受け入れることができなかったからである。そのような存在に何を語ったところで同じであろう。それゆえに、続いて二人の兄弟のたとえを語ったイエス。

二人の兄弟が違う対応をしたたとえである。一方は「いやだ」と言いながら考え直して、父の意志に従った。しかし、他方は「承知しました」と答えながら結局父の意志には従わなかった。そして、さらにイエスは今日のたとえを語ったのである。

従う者がいれば、従わない者がいる。それは当然である。そのような世界において、ぶどう園の農夫たちは、収穫を納める約束をしてぶどう園を借り受けたが、結局納めなかった。兄弟のうちの弟のようなものである。しかし、罪人と呼ばれる者たちは最終的に父の意志に従い、神の国に入るであろうとイエスは結んでいた。悔い改めは、神の意志に従うことである。その悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた洗礼者ヨハネは神の意志を宣べ伝えていた。このヨハネの洗礼を彼が自分勝手に行っていたとは誰も言えない。しかし、ヨハネを信じなかったと批判されることを恐れて、「分からない」と答えた祭司長たち。彼らは弟である。そして、ぶどう園を自分たちの恣意によって主人から奪う農夫たちである。

主人はすべてを整えて、農夫たちに貸した。主人がぶどう園を造った。これが神である。この神によってぶどう園に置かれたのが農夫たち。彼らは何も労苦することなく、ただでぶどう園を借りた。季節ごとの収穫を納めるだけである。それさえも納めたくないと、ぶどう園を自分たちのものにするために行動する。最終的に、主人の息子を殺害し、ぶどう園を手に入れたと思った。しかし、主人は怒り、彼らを殺害して、収穫を納める別の農夫たちに貸し与える。この主人の行動は当然のことであって、何も「驚くべきこと」ではない。このたとえを聞いていた人たちがそう答えているからである。

では何が「驚くべきこと」なのだろうか。殺害した息子が「隅の頭」として生じなければ、それは「驚くべきこと」ではないだろう。従って、イエスが引用する詩編の言葉は、イエスご自身の復活を意味しているということになる。それが「驚くべきこと」であり、神の生成なのだということである。復活は、神が生成し給うことであり、人間が十字架に架けたイエスが「隅の頭」として生じることなのである。

イエスが「隅の頭」であるということは、イエスが最終的に神の家をしっかりと建つものにする要石だということである。この要石である「隅の頭」が生成されるのは、イエス殺害の結果である。神の意志への人間の拒否であるイエス殺害。この拒否が、最終的に「隅の頭」を生じさせる神の御業に用いられる。拒否がなければ「隅の頭」を拾い上げる神の御業は「驚くべきこと」ではない。だとすれば、神への拒否が当然のこととして了解されている。神の意志を拒否することが、人間の自然な姿であり、罪の姿であると了解されていることになる。そのような世界にあっては、「捨てた石」は顧みられることがない。人間の罪が捨てたものが神によって拾い上げられ、「隅の頭」として生じるがゆえに「驚くべきこと」なのである。従って、イエスのたとえは農夫たちの反抗を当然のこととして前提している。

農夫たちが代表している祭司長、長老たちは、人間的拒否の代表。彼らが捨てたのは、罪人たち、娼婦たち、徴税人たちである。彼らの代表としての父の独り息子、イエスが「隅の頭」。神の意志を拒否する宗教指導者たちと神に従う罪人たちという構図が、イエスのたとえには反映している。罪人たちの代表として「捨てられた」イエスが「隅の頭」であることが祭司長たちにとっては「驚くべきこと」である。なぜなら、彼らにとっては、自分たちがぶどう園を所有することが当然だと思われていたからである。

しかし、このたとえを聞いた人たちが降す判断は人間として当然だと思われるように語られている。彼らは客観的には当然である主人の行為を認めている。ところが、農夫たちのように、自分がその立場になったならば、主人の息子を殺害することが当然のことになる。それが覆されるとき「驚くべきこと」と驚く。なぜなら、人間は自分の立場を守ること、自分の利得を守ることを当然と考えているからである。神の意志に照らしてみて、反していると分かっていても、自分たちにとって必要なのだと実行してしまう。これが人間の罪である。

神の意志の絶対性は自明のこととして前提されていながら、人間の恣意が当然のこととされる。恣意的な行為が行われるとき、神との約束など反古にされている。根源的に自分のことしか考えないのが人間だからである。排除された石ではなく、排除した人間が最終的に排除される。イエスのたとえが示しているのは、如何に当然のことと思われようとも、排除の論理は結果的に神の意志に反しているということである。いや、最初から反していることは分かっているのだ。しかし、自分の恣意を断つことができず、自分の恣意を妨げるすべてを排除してく。しかし、最終的に神の意志が実現する。それが神の生成した「隅の頭」の言葉である。

この「隅の頭」が「打ち砕き」、「押しつぶす」のは人間の恣意であり、罪である。人間的罪にも関わらず、神はご自身の意志を実現し給う。そのとき、我々は自らの罪を認め、神の意志を受け入れるか否かが問われる。自分自身が人間の支配を実現しようとしていなかったか。自分の恣意を優先し、他者の存在を排除していなかったか。それを当然のこととしていなかったか。この問いの前に立たされるときが、我々の裁きのときである。そのとき、我々は「隅の頭」によって吟味される。それが「打ち砕かれ」、「押しつぶされる」という言葉が語っていることである。この吟味によって、我々は真実の自分を認める者と、それでもなお認めない者とに分かれるであろう。

最後の審判のとき、我々の前にある「隅の頭」は我らの主イエス・キリストである。このお方は、ご自身が「隅の頭」であることを認めさせるお方。我々にご自身の捨てられた体と血を与えて、受け入れさせるお方。このお方の体と血に与る聖餐を通して、我々は最後の審判を経験する。悔い改めて、このお方の体と血に与ろう。あなたを救われる者として、神の家の家族としてくださるのはイエス・キリストなのだ。神の家に迎えられ、神の生成に与り、神の家を形作る肢として生きていこう。排除される存在を受け入れ、義しいところに置いてくださる神に信頼して。祈ります

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