「聖なる乞食」

2020年11月1日(全聖徒主日)
マタイによる福音書5章1節~12節

「幸いな者たち、霊において乞食同然の者たち。なぜなら、彼らのものとして存在しているから、天の支配は」とイエスは初めに言う。マタイにおいては「霊において」と付加されている。これは神の霊によって、無一物と認識しているということである。つまり、聖なる神の無一物者、乞食ということである。それは、神からすべてのものをただいただく乞食のように生きているということである。霊的な乞食、聖なる乞食。これがキリスト者である。このように生きている存在は「幸いな者たち」なのだ。なぜなら、天の支配、神の支配を自らのものとして生きているからである。神がすべてのものを供給し、このわたしに与えて、このわたしという魂を保ってくださっていると信じ、生きている。そのような存在が聖なる乞食である。

「聖」という事柄は、神のものとされることである。我々キリスト者が聖なる者であるならば、それは我々が神のものとして生きているからである。この世にあっては、自分のものとして生きざるを得ないところがある。しかし、この世を離れて、神の許に行った人々は完全に神のものとして生きている。それゆえに、天に召されたキリスト者は聖なる乞食。神の許にあってすべてをいただく存在。そのような者たちは幸いな者たちなのである。今日、我々が覚えている「全聖徒」は、この幸いな者たちである。聖なる乞食である。

全聖徒とは、すべての聖徒であるが、その範囲はどこまでなのかと思い計る心があるかも知れない。しかし、この世の生の終わりに至るまで、神を信じ、歩み続けた者たちは、神の許にあっても同じように生きているであろう。そのような者たちが幸いな聖なる乞食なのである。天の国が彼らのものとして存在しているのだから、何も恐れる必要はない。不安になる必要もない。すべては神が配慮してくださっている。イエスが宣言する八つの幸いは、「天の国は彼らのものとして存在しているから」という理由で括られている。それゆえに、八つの幸いは究極的に「天の国がその人たちのものとして存在していると信じて生きている者たち」の幸いなのである。

では、我々地上に生きているキリスト者はどうなのか。未だ完全には天の支配、天の国を信頼できず、自分の力に頼っているところがある。それゆえに、我々は未だ不完全である。未だ罪人である。この罪人を救うためにイエスは来てくださった。イエスのこの言葉を聞いている者たちも、同じように日常の煩いに支配されている。明日の飯もどうなるのと不安の中で生きている。そのような者たちに向かって、イエスは宣言している。「幸いな者たち」と。その言葉を聞かされていること自体が幸いなのである。誰も言ってくれない。誰もが蔑む。誰もが忌み嫌う。そのような人々がイエスの許に集まってきた。世間から除け者扱いされている。そのような者たちがイエスの宣言を聞かされている。あなたがたは幸いな者たちなのだと。昔の預言者たちも除け者扱いされ、食べることもできずに放り出されたのだ。迫害を受けたのだ。そのような人たちと同じようにあなたがたは幸いなのだとイエスは言う。

誰もこのように言ってくれなかったと、彼らは思ったであろう。誰もが蔑むから、俺たちは不幸なのだと思っていた。しかし、幸いなのだと、このお方は言われる。どうしてなのか。乞食がどうして幸いなのか。自分では何もできないことがどうして幸いなのか。自助努力しろと言われても、できないところに生きざるを得ないのだ。それなのに、どうして幸いなのか。いや、それこそが幸いなのだ。

我々は自分の力を捨てることができない。どこまでも自分でできると思い込んでいる。力を付けることはできても、力を捨てることなどできないのが人間である。自分で捨てることができない存在が、捨てるところに置かれている。それが幸いである。なぜなら、自分ではできないことを与えられているからである。神があなたに捨てさせたのだ。そして、神だけを信じるように導いてくださっている。自分が持たないことができない人間が、持たない存在とされて、乞食同然に生きなければならない。人間は助けてくれない。しかし、ただ神だけは助け給う。神だけがわたしを幸いと言ってくださる。神だけがわたしを受け入れてくれる。この神の愛を知っていることが幸いなのである。

幸いが多く持つことであり、自分の地位であり、自分の力であると思い込んでいる社会にあって、持つことなく、何もなく、無力である。そこにこそ、神の憐れみがある。神の力が働く道がある。イエスはそう宣言してくださった。このイエスの言葉を聞いた群衆は、世界を違うように見始めたことであろう。我々も、イエスの言葉を聞いて、耳を疑った。しかし、今はイエスの言葉が真実であると知っている。如何なる存在であろうとも、すべては神が与え、神が養い給う。金持ちも、地位ある者も、貧しい乞食同然の者も、病に苦しむ者も、皆神の養いの中に置かれている。しかし、その養いを受け入れるのは自らの無力さを知った者たちだけ。無力さを知る存在こそ、聖なる神の乞食として生かされている。神の許にこそ、我々のいのちがあると信じている。神がおられなければ、わたしはここに生きていないと信じている。それが幸いな聖なる乞食である。

マルティン・ルターは63歳で神の許に召されたが、その死のテーブルに残されていた言葉は「わたしは神の乞食」であった。神にすべてのものを乞う存在として自らを認識したルターの最後の言葉。ルターもこの全聖徒主日、神の許で神の御顔を仰いでいる。そして、我々に「神の乞食」であったことを幸いだったと伝えてくれている。聖なる乞食。それが信仰者なのだ。キリスト者なのだと。

我々の身近なキリスト者で、天に召された者たちもルターと同じように、神の乞食、聖なる乞食として神から今すべてをいただいて神の許に生きている。その聖徒たちを思いながら、我々もまた、この地上の生を神の許からすべてのものをいただく存在として生きて行きたい。我々は聖なる乞食なのだと生きて行きたい。それが天に連なる聖徒たちとの我々の交わりとなるのだ。

キリストが宣言してくださったように、迫害されても、罵られても、何も持たない者として生きる幸いを生きて行こう。あなたは裸で生まれた。裸で神の許に帰る。出て来たときと同じように、何も持たないことが完全なる神のものとして生きることなのだ。イエスがおっしゃったように、「自分を捨てる」ことは難しい。それゆえに、捨てざるを得ないところに置かれることは幸いなのである。神の恵みなのである。あなたができないことを与えてくださるのは神なのだ。不可能を可能なることとしてくださるのは神なのだ。

イエスの宣言において、我々は無力を知り、神の力によって生きることができる道を開かれた。わたしは無力であろうとも、わたしの神は力あるお方。わたしが罪深くとも、わたしの神はわたしの罪を働かなくしてくださる。わたしが愚かであろうとも、諭してくださる。わたしが落胆していようとも、励ましてくださる。動けない気持ちのときにも、動かしてくださる。それが神の力である。イエスがおっしゃるように「喜べ、歓呼せよ」。我々が自らの無力を喜ぶとき、迫害を歓呼するとき、すべては神の意志に従ってなっていく。

神の意志だけが真実である。神の意志がわたしを造ってくださった。神の意志こそが、わたしをわたしとして生かしてくださる聖なる意志。あなたは、何も持たなくとも神のもの。あなたは、弱くとも神の力に包まれている。使徒パウロが言う如く、「弱さを誇ろう」。弱いときこそ、わたしは神のものとして生きている。神に祈るしかないというときこそ、わたしは神にまっすぐに向かっている。それこそが幸いなのだ。全聖徒たちは、そのように生きた。今、神の御許で神にすべてを委ねて生きている。この受動性こそが神の真実を受け取る道。

キリストはこの道を我々に示してくださった。我々がキリストに従い、神の御許へと赴くことができるようにと、ご自身の体と血を我々に与えてくださる。感謝して受け、キリストの言葉に従っていこう。

祈ります。

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