「あなたの神」

2020年11月8日(聖霊降臨後第23主日)
マタイによる福音書22章34節~40節

「あなたは愛しなさい、あなたの神、主を、あなたの心全体において、あなたの魂全体において、あなたの思考全体において」とイエスは言い、「それが、大いなる第一の掟として存在している」と言う。続けて「しかし、第二はそれと同じである」と言う。第二が第一と同じだと言う。しかし、愛の向かう方向が違うように表現されている。「あなたは愛しなさい、あなたの隣人を、あなた自身のように」と。神を愛することと人間である隣人を愛することが「同じである」とイエスは言う。これはどういうことであろうか。ただ神に向かうことが、人間に向かうことだと言うのか。ここで何が同じなのか。「あなたの」という所有格である。新共同訳では、これが省かれている。くどいからであろうか。すべてに「あなたの」という所有格がついているからなのか。ここで重要なのは、この「あなたの」という所有格である。「あなたの神」、「あなたの心」、「あなたの魂」、「あなたの思考」、「あなたの隣人」、「あなた自身」。この短い文章の中で、くどいほど「あなたの」が出てくる。これが聖書の原文である。そして、申命記の原文もこうなのである。今日の日課の申命記26章ではなく、6章5節に記されている言葉である。申命記における重要な言葉である。神であるヤーウェを愛することは、あなたの心と魂全体において行われるべきものということである。唯一この6章5節のみに出てくる「力を尽くし」と訳されている言葉メオドは「豊かさ」、「力」、また「溢れること」を表す言葉である。「力」というよりも神によって豊かに溢れることの全体において、神を愛するということであろう。それがマタイに引用される際に、「思考」を意味する言葉に置き換えられたようであるが、どこで入れ替わったのかは分からない。おそらく、人間の精神を表す三分法によって理解しようとしたのであろう。そうであっても、「あなたの」という所有格だけは置き換わらない。これが重要な言葉なのである。

「ヤーウェ」はあなたの神であり、神は「あなたの心」、「あなたの魂」、「あなたの思考」をあなたに与えたお方である。そのお方を愛することは「あなたの」与えられたすべてにおいて、愛することである。そして、「あなたの隣人」もまた神が与え給うた存在であり、あなた自身とあなたの隣人は同じ神によって造られた存在である。それゆえに、あなた自身を愛することは、あなたの隣人を愛することでもある。その逆も同じである。こうイエスはおっしゃる。

しかし、隣人とわたし自身は別であると我々は考える。そう考えるとき、我々はわたしと神とは別であると考えていることになる。もちろん、わたしは神ではない。しかし、神がわたしを造り給うたのだから、わたしは神ではないが神のものである。神のものであるわたしと隣人は神のもの同士。結局、我々人間は如何なる存在であろうとも、神のものとしての世界に、神のものとして生かされている。神の世界を愛するならば、神のものを愛する。神のものを愛することは、わたしの心も魂も思考も神のものに向かうことである。それこそが、神を愛し、神に向かい、神の下で、神と共に歩むことである。イエスはそうおっしゃっているのではないのか。そうであれば、我々は「わたしの」という所有格ですべてのものを括るべきなのだろうか。いや、「あなたの」と「わたしの」は違う方向に向かう思考である。

「わたしの」という所有格は、自分の所有を主張する思考であり、「あなたの」という所有格は与えられるものを示す思考である。従って、「あなたの神」は、あなたに与えられた神との関係であり、神との関係に入れられたあなた自身を自覚せよとの言葉である。「あなたの心」、「あなたの魂」、「あなたの思考」すべては神からあなたに与えられたものである。「あなたの隣人」も神から与えられたものである。「あなた自身」も神から与えられたものである。「あなた自身」を構成しているのは「あなたの心、あなたの魂、あなたの思考」である。それゆえに、「あなた全体が神を愛する方へ向かうように」との神ヤーウェの戒めが申命記の言葉である。

ところが、この言葉を自分の生活の中だけで理解しようとする考え方に対して、イエスはあえて聞かれてもいない第二として「隣人」を加える。しかも「第二はそれと同じである」と言う。第二は、隣人を愛することであり、「あなた自身のように」愛することだと言う。これはレビ記19章18節のみことばである。それが神を愛することと同じだと言うが、隣人を愛することは神を愛する魂からしか生まれないということである。第一がなければ、同じ第二は生まれない。これを取り違えて、第二を行っていれば第一を行っていることになると考えてはならない。第一が必然的に第二として現れるということである。第二を行っていれば、第一が行われているというわけではない。なぜなら、第二はこの世において現れているとしてもその根源がどこにあるかは分からないからである。それゆえに、第一があってこそ、第二は同じ根源から生じるということである。

あなたに与えられた関係の根源性は神にある。神がすべてを与えた。それゆえに、神によって与えられた関係の中で神に向かうことが重要な戒めなのである。与えられた関係を表す言葉が「あなたの」という所有格である。「あなたの」と語るのは神ヤーウェなのである。それゆえに、「あなたの」と言われた人間一人ひとりがわたしが使用するものとして与えてくださったすべてにおいて「神を愛する」ことをイエスは第一の戒めとして語られた。さらに、自分だけの世界に閉じこもることなく、与えられた社会の第一のものである「隣人」を愛することが第一と同じ根源から生じるのだとおっしゃる。第一を第一とする者は、第二を第二とする。そして、第一の根源から第二を行うことが可能とされるということである。それが「あなたの」という所有格を自覚する者のあり方である。

「あなたの神」は、あなたにあらゆるものを与え給う。あなたがそれを用いて、あなたの神ヤーウェを愛するようにと与え給う。あなたが与えられたものを神の恵みとして受け入れるならば、与えられたものを与えられたものとして用いるであろう。それが第一の戒めが意味することである。この第一を神の創造された世界において実行することが、第二の戒めである。それゆえに、第二は第一と同じなのである。

根源的な関係は、現れとしての世界において現れていく。それは必然であり、表さなければならないのではない。第一を第一とするときに現れていくものなのである。しかし、我々は表さなければならないと考えてしまう。そして、神の意志を受け取り損なってしまう。神の意志があってこそ、この世に現れるものがあるのだ。この世の現れが神の意志を表しているとしても、我々が表そうとすることは神の意志の現れとは言えない。そこに我々の思惑を介入させてはならないのである。我々はただ従うだけ。「あなたの」という所有格が表しているのは、信仰の従順である。

従順であるということは、「あなたの」とおっしゃる神ヤーウェが与え給うたものが働くことを意味しているのである。わたしが働くことではなく、わたしに与えられた神のものが働くことを意味している。それは、わたしがわたしの意志に従って、わたしの望みに従って、思惑に従って、実行することではない。隣人を愛していれば、神に愛され、救われると思い込むならば、隣人から始めていることになる。現れから始めるのではなく、現れの根源から始めることである。そのとき、第二も同じように与えられる、あなたのものとして。これが「あなたの神」の御業である。

神の御業は、あなたに与えられているすべてのものにおいて現れているのだから、あなたは与えられたすべてのものを用いて、神を愛する。神を愛する心も魂も思考も必ず現れていく、あなたの隣人へと。そこには見返りはない。ただあなたを通して現れるだけなのだから。信仰の従順はこのようにあなたを神のものとしてくださる神の御業。この御業の中であなたは生かされているのだ。

祈ります。

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