「目覚めの言葉」

2020年11月15日(聖霊降臨後第24主日)
マタイによる福音書25章1節~13節

「それで、あなたがたは目覚めていなさい。なぜなら、あなたがたは知らないから、その日、またその時を」と最後に言われている。知らないのだから、目覚めていよということは、いつまで目覚めていれば良いのか分からないということである。そのようなことは人間には不可能である。思慮深い乙女たちも寝てしまったのだから。思慮深くとも、愚かであろうとも同じように寝てしまうのだ。人間の身体機能を超えることはできない。そんなことはイエスもお分かりのはず。それならば、「目覚めていなさい」という勧めがどうして語られるのか。いや、目覚めていることができないのだから、語られる。それが「目覚めの言葉」なのである。

この言葉が語られていることによって、我々は自らが眠ってしまう存在であり、大切なときに間に合わなくなってしまうことが警告されているからである。警告は、目覚めの言葉である。目覚めていることができないのは当たり前だからこそ、目覚めの言葉が語られなければならない。それゆえに、目覚めの言葉は、目覚めていることができないことを自覚させる言葉である。この言葉を純粋にまっすぐ聞く者は、自らの愚かさに気を付けているであろう。それゆえに、愚かであることを知っている者は愚かではない。愚かであることを知らないことが愚かさである。

思慮深い乙女は、愚かにも寝てしまうことを知っている。花婿が遅れることがあるかも知れないとも考えたであろうが、それ以上に寝てしまうことに気づいていた。それゆえに、叩き起こされてもすぐに油を整えることができるように準備しておいたのである。そうしておかなければ、買いに行かなければならず、自らの職務を実行することができないと知っていたのである。愚かな乙女たちは、自らの職務を知らない。何が求められているかを知らない。それゆえに、自らが寝てしまうことを顧慮することができなかった。自分を正しく知らないのである。これが愚かさである。

賢さは、自らの愚かさ、不覚を知っていて、それに備える。しかも、何が重要かということを知っている。油がなければ職務を全うできないと知っている。それゆえに、賢さは職務に対する忠実さなのである。職務に忠実であることがここで語られていること。目覚めていることは、職務への忠実さに生きているか否かなのである。職務を正しく認識し、職務に敬意を払っているならば、相応しく備えることができる。自らの不覚、自らの愚かを知って、備える。このように備えることができる思慮深さは、どこから来たるのであろうか。天から来たる。神から来たる。目覚めの言葉から来たる。すべての者の上に来たる。しかし、すべての者が受け取るわけではない。

目覚めの言葉を素直に聞く者はどのような者か。その者は、母の胎にあるときから分けられているものである。母の胎にあるときから聞く耳を与えられている。母の胎にあるときからの自らを知っている。目覚めの言葉によって目覚めたときに知っていたことを知る。これは誰も自ら選ぶことができず、与えられているだけ。それゆえに、誰が聞く耳を与えられているかは分からない。目覚めの言葉が語られたときに、聞く耳を開かれている者が目覚める。目覚めの言葉を聞いて目覚めていることが可能とされる。これが、イエスが我々に与え給う賜物、信仰の賜物である。それゆえに、最後に言われている、「わたしは知らない、あなたがたを」と。神は彼らを知らないのである。

知らないということは、最初から知らないということである。反対に、扉の向こうに入って行った乙女たちは最初から知られていた。なぜなら、扉が開いたときに、はじめて知ることはないからである。そのときにいなかった乙女たちは、最初から知られていないのである。それゆえに、目覚めている者は、最初から知られている者である。目覚めていることが知られている者であることを証している。目覚めの言葉を聞いていることを証している。それだけである。目覚めていれば救われるのではない。救われる者が目覚めている者である。扉が開くとき、入ることができるのが、救われた者だからである。

救われた者が神の国に入るのであって、神の国に入るときに救われるのではない。そのときになって慌てる者は救われた者として生きていない。そのときではもはや遅いのだ。イエスがおっしゃっているのはそういうことである。天の国に入る者は、すでに救われている者。救われた者として生きている者。それが思慮深い者。目覚めの言葉を聞いて、信仰の賜物を与えられ、素直に受け入れた者。そのような者が、目覚めの言葉を聞き続け、終わりの日に扉の前に立つ者とされている。それゆえに、今救われていることが将来救われることなのである。

終末はいつかやってくる日ではない。いつかやってくると思い、まだ大丈夫だと思うような者は、すでに逸している。いつかと考えている者は、その日の到来を信じてはいない。その日の到来を信じている者は、いつか来るだろうとは考えない。明日にも来ると考える。それゆえに、今日備える。明日来ても良いように。来年来ても良いように。10年後に来ても良いように。20年後であろうと30年後であろうと、備えて生きる。それが目覚めている者である。そのような者は、いつ来たとしても備えている者である。

自らの愚かさを知り、思慮深くあることを神に祈り求める。祈る者が思慮深い者である。喜びの祈りを持っている者が思慮深い者。なぜなら、油はオリーブ油だから。ギリシア語でオリーブ油はエライオン「喜び」という意味だからである。喜びの祈りを持って祈り続けている者が、目覚めている者。自らの愚かさと不覚を知り、神に祈る者。神の力なくして、わたしは生きていけないと祈り求める者。祈りを喜び、祈りを絶やすことなき者。このような者こそ「目覚めの言葉」を聞いている者。

祈る者は、今日備えている。終わりの日が明日来ようとも備えている。備えているがゆえに、恐れることはない。備えているがゆえに、慌てることもない。明日、終わっても良いように生きている。明日、神の許に召されても良いように生きている。その人には祈りの油、喜びの油は絶えることがない。救われているがゆえに、このように生きる。救われた者が救われる。救われた者が入る。それが神の国。それが天の国。それが喜びの祝宴。

その扉から入る者として生きていくために、イエスは「目覚めの言葉」を語ってくださる。我々のために語ってくださる。聖書の中で語ってくださる。イエスのみことばを聞き続けるようにと語ってくださる。我々はすぐに寝てしまう者なのだ。すぐに愚かさに落ち込む者なのだ。イエスの言葉、目覚めの言葉を聞き続けることがなければ、我々は終わりの日まで目覚めていることはできない。我々が救われることを願い、イエスは語り続けてくださる。今日救われた者であるように、明日も救われた者であれと語り続けてくださる。

みことばには、このお方の愛が宿っている。イエスの愛によって、我々は目覚めている者とされることを忘れてはならない。傲慢にも、自分一人で救われた状態を維持できると思い上がってはならない。我々は寝てしまう者、眠りを必要とする人間。目覚めている力は、目覚めの言葉にしかない。あなたには何の力もない。イエスの言葉、神の言葉に力がある。使徒パウロが言うように、あの十字架の言葉こそ神の力。救われる我々には、神の力。我らの救いのために立てられた十字架。その言葉が目覚めの言葉。あなたが救われた者として生きていくいのちの糧が十字架の言葉。

十字架の言葉は、イエスの体と血を、イエスの言葉によって我々に与える。みことばと共に受ける者のうちに、イエスご自身を形作ってくださる。みことばと共に受ける者に、救いの約束を与えたまう。感謝して、みことばをいただこう。あなたの口で、あなたの舌で、あなたの喉で、キリストご自身をいただこう。キリストの目覚めの言葉があなたのうちで生きて働きますように。

祈ります。

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