「最小の人の子」

2020年11月22日(聖霊降臨後最終主日)
マタイによる福音書25章31節~46節

「しかし、人の子が彼の栄光のうちに来たるとき。」と言われている「人の子」の来臨は、終末における裁きのための来臨である。「人の子」とはメシア、救い主を表す言葉としてこの当時使用されていた。イエスは、この「人の子」をご自身のこととして暗に語っているが、通常の「人の子」観とは違うことが語られている。

「彼の栄光」と言われているから、普通にはすべてのものを支配する王のような栄光を思い描く。ところが、ここでは「人の子」は言う、「これらの最も小さい者たちのわたしの兄弟たちの一人」と。「人の子」の兄弟たちは「最も小さい者たち」だと言うのだ。そうすると、この世における王とは違うようである。「人の子」の兄弟たちが「最も小さい者たち」と言われるのだから、「人の子」も同じく「最も小さい」のである。それゆえに、「人の子」は王のような姿ではなく、通常は多くの人から顧みられることがない存在だということになる。この表象は、イエス当時の「人の子」観からは遠くかけ離れたものであった。それゆえに、誰もイエスのおっしゃることを理解できないでいたのだ。それが理解されるのは、イエスの十字架と復活の後である。イエスの十字架と復活の出来事が示しているのは、最も小さな者として十字架に架けられたイエスがその兄弟たちの代表として復活させられるということである。従って、最も小さい者たちの代表であるイエスは、「最小の人の子」なのである。

この「最小の人の子」の言葉が語っているのは「最小の人の子」の兄弟たちの一人にしたこと、しなかったことは、すべて「人の子」にしたことであり、しなかったことだということである。どうして、「一人」なのだろうか。しかも、どうして「最小」なのであろうか。これが重要なところである。「最小の人の子」は「一人」なのである。メシアは「一人」なのである。その「一人」は「最小」であるがゆえに、顧みられることがない。そのような「一人」を「人の子」は代表している。それゆえに、たった「一人」に行ったり、行わなかったりしたことが「人の子」であるメシアにしたこと、しなかったことになると言われている。ということは、我々が考える世界とは違う世界が「人の子」が代表する世界だということになる。その世界は「一人」を大切にする世界だからである。

「一人」に何もしなかったとしても、大勢に影響はないと我々は考えてしまう。「一人」よりも大勢が重要なのだと考えてしまう。こうして、「一人」を捨て去ってしまう。これが我々人間の世界の問題なのである。世界に影響を与えるほどの大勢を重視し、その下の下の下で生きる「一人」のことは何も考えない。大勢が守られなければ、その「一人」も立ち行かないのだからという論法である。しかし、「一人」がいなければ大勢も成立しないということが忘れられている。「一人」から始まった現今の大勢なのだということが忘れられてしまう。こうして、「一人」が切り捨てられて、大勢が繁栄する構図ができ上がる。

イエス当時のメシア観も同じ構図であった。それゆえに、王としてやって来るメシア「人の子」を期待したのである。末端の者たちにさえ、その期待があった。王がしっかりしていれば、末端まで豊かさが行き渡るであろうという思考である。ところが、国や集団が豊かであるためには、末端の一人ひとりが自らを相応しく生きている必要がある。それ無くして、大勢は成立しない。にも関わらず、大勢さえしっかりしていればそれで安心だという先入観があるのだ。それは、依存なのである。誰かがやってくれる。誰かが助けてくれるという単なる責任逃れである。

集団の中の一人ひとりが自覚的に主体的に生きていなければ、その集団はいずれ無くなっていくであろう。集団の中のすべての人間が頂点に立つ者に依存し、自己の責任を負わない。このような姿に対する危惧から、古代イスラエルでは人間の王のいない「神の民」の思想が発達したのだ。それは十二部族連合であった。士師記からサムエル記に良く記されていることである。古代イスラエルは王のいない民であったが、それぞれの部族の危機の時に士師が神によって起こされて、民の危機を救ってきた。その後は、それぞれに通常の生活に戻って行くのである。ところが、そのうちに「王」を求めることになって行った。その結果、他の国々と同じように、王国同士の覇権争いに巻き込まれていくことになる。覇権争いに巻き込まれた結果、バビロン捕囚によって国が失われてしまった。それ以降、王としてのメシア待望が発展するのである。そのようなメシア待望の只中に、イエスはイスラエルに来たり給うた。

イエスが求めているのは、原初の神の民の回復であろう。そのためには、「一人」が重要になってくる。「一人」が充実し、活き活きと生きていなければ、神の民は大勢として成立しないのである。それはまた、信仰の問題でもあった。信仰者として「一人」神の前に立つ信仰が確立されているならば、大勢は大丈夫である。それゆえに、イエスがここで問うておられるのは、信仰の問題である。「一人」としての信仰の問題である。「一人」を大切にする信仰の問題である。これを「一人」に何かすれば、自分は救われると受け取ってしまうと間違ってしまう。あなたが「最小の一人」であることを忘れてはならないのだ。あなたも誰かに助けられることがある。お互いに助けられ、助けて、共に一人の神を仰ぐ。神の下に「一人」と「一人」が真っ直ぐに立つ。あなたも「一人」として神の前に立ち、隣人も「一人」として神の前に立つ。この関係の中心点は「神」である。その中心へと召し集めるために、メシアは来たり給うのだとイエスはおっしゃっているのである。そのとき、日常において、「一人」を生きてきた存在は、「一人」を自分と同じ最小の存在として大切にしてきたのだ。自分が救われるために大切にしたのではない。自分も「最小の存在」であることを認識し、同じ「最小の存在」を守った。それが羊たちである。その人たちは、「最小の人の子」と一つになっているがゆえに、「最小の兄弟たち」を守ったのである。これは信仰から来る行為である。

彼らは救われるために生きているのではない。救われている者として生きている。それゆえに、自分の救いのために何かを行うという思考には至らない。むしろ、自らが神によってどれだけ顧みていただいたかを良く知っている。顧みてくださったお方のゆえに、顧みる者として生きる。それだけなのである。自らが最小の「一人」であることを弁えて生きる。自らが最小であるがゆえに、最小の隣人を思いやる。それだけがその人の生きる方向なのである。

終末における裁きとは、そのときに裁かれるのではない。それまでにどう生きてきたかで、すでに裁きを生きているということである。それが明らかになるのが、終末における裁きである。それゆえに、来臨する「人の子」は「最小の人の子」として来たり、ご自身と同じ「最小の存在」との同時性を証するお方なのである。裁かれる存在もまた、「最小の存在」として生きたかどうかを問われる。「最小」を大切にしてきたかどうかを問われる。これが、今日のイエスのたとえが語っていることである。

我々キリスト者は、「最小の人の子」であるキリストの者とされた存在。「最小の人の子」の弟子。「最小の人の子」が負い給うた痛みは、我々の痛み。我々の傷、我々の病。我々が自らのこととして責任を持って生きていくために、イエスは十字架を負ってくださったのだ。このお方の兄弟姉妹である我々は、「最小」であるがゆえに兄弟姉妹である。互いに痛みを負い合うがゆえにキリストの小さき兄弟姉妹である。「最小」のお方が我々の救い主である。我々と同じ最小の存在として生きてくださったお方が、我々を兄弟姉妹としてくださったのだ。救われているあなたがたは最小でありつつ、最も大切にされている。神によって最も大切にされている。キリストがご自身を献げてくださったほどに、愛されている。その「一人」なのである。この恵み深い御心に感謝して、我々もまた「最小」の存在を大切にする生き方を自らのものとして生きて行こう。終わりの日を目指して。

祈ります。

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