「解くために」

2020年11月29日(待降節第1主日)
マタイによる福音書21章1節~11節

「あなたがたは発見する、誰も人間がその上に座ったことのないつながれている子ロバを。あなたがたはそれを解いて、連れてきなさい」とイエスは言う。「縛られている」存在を「解く」ことが、イエスの使命であることが示唆されている。イエスは、その子ロバの上に最初に座る。つまり、解かれた存在を支配するお方だということである。

子ロバに代表されるように、我々は何かに縛られている。縛られて、身動きできないようにされている。それは、世間体であったり、自分が過ちを認められないからであったりと、さまざまな理由がある。しかし、人間も自然の存在も本来は自由である。神が創造した世界はそれぞれに生きる道を与えられている。誰かが縛る権利などない。一人ひとりは神のものである。一つひとつは神のものである。誰かが誰かを縛るとすれば、神のものを自分のために拘束することであり、それが我々人間の世界においては所有権として機能している。それは盗まれることから守る法である。しかし、その法によって所有を主張するがゆえに、神のものでありながら、人間のものとされている。

本来、世界は神のものである。神が創造したのだから、神の所有である。この所有を神のものとして取り戻すために、イエスは来たり給うた。罪人も、人間たちの律法支配によって縛られ、身動きできない。病人も、人間たちの自己保身によって、身動きできない。貧しい者たちも、人間たちの所有の主張によって身動きできない。出エジプトの際に、天から降ってきたマナは、所有を、貯蓄を否定した。貯め込んでいても腐ってしまったからである。

所有し、貯め込むことによって、腐っていく。誰も乗っていない子ロバも縛られているだけでは、老いていくだけ。すべてのものは使用されなければならない。所有を離れて、使用に供されるとき、すべてのものは創造された意味を回復するであろう。神は、誰かの所有のために、すべてのものを創造したのではないのだから。

縛られている子ロバを解くイエスは、誰かに何か言われたならば、こう言いなさいと弟子たちに言う。「主が必要を持っておられます。そして、すぐにそれを再び、ここへ彼は派遣します」と。子ロバは主の所有であり、子ロバに対する必要も主のものである。さらに、子ロバは主によって再びここへ派遣されると言う。その派遣によって、子ロバは新たな使命に生きることになるということである。派遣されることによって、子ロバは新たに生き、新たに来たる。同じように、「主の名において来たる方」も主に派遣されて来たる。それが主イエスである。

主イエスの派遣は、子ロバの解放に示唆されるとおり、「解くため」の派遣である。縛られて、呻吟している存在を解放するために派遣される。解放された存在が神によって本来の自由を生きる。その自由は、神の意志に従う自由である。これを奴隷的だと感じる存在は解放されていない。自らの意志に従うことが自由だと思い込んでいる。自らの意志が如何に不自由であるかを知らない。自由だと思い込んでいるが、その人は世間体を気にして縛られている。人間関係に縛られている。社会の圧力に縛られている。我々は、出し抜かれることがないようにと、誰かを縛り、皆同じように生きることが良いことだと思っている。皆と同じように生きることができることが自由だと思い込んでいる。実は、互いに縛り合っているのに。

我々がそれぞれの生き方を認めることができないのは、皆同じという平均が良いことだと思い込まされているからである。平均とは、あくまで平均であり、平均以下と以上の間というだけである。平均以上は良いが、平均以下は悪いと思っている。しかし、そうであろうか。それぞれの在り方は一律に平均を出す統計のようには行かないのだ。また、以上が良い、以下が悪いという考え方もその統計からしか生まれない。それぞれの在り方を認めることは、統計にはできないのだ。

どれだけ小さな存在であろうとも神の被造物であり、神の所有である。神に使用される存在である。神が創造し、使用する存在を人間が良い悪いと評価する。これこそ神の意志に反することである。それぞれの人間の価値は、神の被造物として同じである。小さな子ロバが神の所有と必要を付与されているように、人間もそうである。誰にも縛られることなく、その人の生を生きるべく創造されている。

神の被造世界を自分たちの所有世界に貶めているのが人間である。この人間の世界が縛り合うことから解かれて、それぞれに自らの使命を生きることができるように、置かれたところで置かれたように生きるように、イエスは来たり給う。このお方が、我々を解放するのは、子ロバのようにご自身のものとして我々を用い給うときである。我々の上に主が座り給うときである。そのとき、我々は真実に自由を生きることができる。それが我々の救いである。

群衆は叫ぶ、「ホサナ」と。「我らを救い給え」との叫び、それがヘブライ語では、ホシュアーナー、「ホサナ」である。群衆は、我知らず叫んでいる。「救い給え」と。救い給うために来たるお方に神の祝福があるようにと叫ぶ。そのお方は、「来たる」お方であり、神によって派遣されたお方である。派遣されて、神の意志を実現することが救いである。人々が叫ぶ「ホサナ」の叫びは、彼らが神の意志に従うときに実現する。一人ひとりが、自らを相応しく生きるときに実現する。彼らが一人ひとり、木の枝を切って、道に敷いたこともそれを表している。

木の枝を敷く群衆、自らの上着を敷く群衆。それぞれに自分の枝、自分の服をイエスの前に広げる。それは、彼らが縛られているところから切り取られること、縛られているものを脱ぎ捨てることを表している。もちろん、群衆は我知らずそれを行っているだけ。しかし、イエスはその心の叫びを聞いている。一人ひとりのものの上を子ロバに乗って進む。一人ひとりを解くために進む。解放し、自由を与えるために来たり給うたお方が進む。このお方は、十字架において、彼らの救いを実現し給う。そのために、神によって派遣され、ここエルサレムに入り給う。

クリスマスに生まれ給う嬰児は、このエルサレムに向かって入るお方として生まれる。母マリアの胎にあるときから、エルサレムを目指しておられる。マリアとヨセフが、自らが置かれたように生きることを通して、生まれるイエス。置かれたところで、置かれたように、置いてくださったお方のご意志を受け入れて生きる。マリアとヨセフはそのようにして、イエスを受け入れた。

クリスマスに生まれ給うお方を迎えるということは、受け入れるということである。受け入れて、従うことである。嬰児としての誕生は、受け入れられるための誕生。嬰児は受け入れられなければ生きていけないのだから。それゆえに、主は嬰児として来たり給う。すべての人が、このお方を受け入れるようにと生まれ給う。

救い給え、ホサナと叫ぶあなたの魂が、このお方を受け入れる。救いを求めるあなたのために、このお方は来たり給う。生まれ給う。あなたの魂のそばに、生まれ給う。あなたの魂のそばに居場所を見出すために生まれ給う。あなたの魂が、本来の創造のご意志に従って生きるために、生まれてくださる。

待降節を生きる我々は、自らの魂の叫びを消すことなく、待ち続ける。魂が求める救いが何であるかを探りながら、待ち続ける。魂が力を得て、自分自身を生きるために、わたしが縛られているものが何であるかを見定めていこう。縛られていることを自覚した存在が、解かれる存在だからである。

あなたが縛られているものは、必要なものではない。あなたが縛られているものは、無くても良いものである。あなたが縛られているものは、永遠ではない。永遠なるいのちの真実は、あなたを縛っているものにはない。受け入れられるために来たり給うお方のうちにある。クリスマスに生まれ給うお方を受け入れる者として、形作られるために、聖餐に与り、主の言葉に従って、主ご自身を受け入れよう。主は、あなたのうちに生きてくださる。

祈ります。

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