「小道づくり」

2020年12月6日(待降節第2主日)
マルコによる福音書1章1節~8節

「彼の小道たちをまっすぐにあなたがたは作れ」と「荒野において叫ぶ声」。それが洗礼者ヨハネだと言われている。「主の道を整える」とは、「彼の小道を作る」ことだと言われている。「小道」は複数形だから、一人ひとりが「彼の小道」を作る。一人ひとりの許へ彼が来たるための「小道」を作る。これが「主の道を整える」ことである。

「小道」とは「大通り」からそれぞれの家へと入っていく小道であろう。「大通り」を歩いている「主」が小道を通って、わたしの家に来たるように、その小道を作るようにとヨハネは勧める。小道づくりは一人ひとりが行わなければならない。誰かが作ってくれるわけではない。自分のための小道を自分で作る。それが洗礼者ヨハネが勧めることである。

その小道づくりは如何にして行われるのか。洗礼者ヨハネが宣べ伝えていた「洗礼」によってであろうか。ヨハネの洗礼は「水」の洗礼である。その上で、「聖霊のうちで沈めるお方」が彼の後から来たると言う。ということは、ヨハネの水の洗礼が小道づくりであろう。では、この水の洗礼とは何であろうか。聖霊の洗礼とは何であろうか。この区別が行われているということは、洗礼者ヨハネには聖霊の洗礼は不可能だということである。さらに、水の洗礼を受けることと、聖霊の洗礼を受けることはどう関わるのであろうか。

水の洗礼が小道づくりであるならば、自覚的に主を迎えることが、水の洗礼である。水の洗礼によって、小道が作られ、小道を通って主が来たり給う、あなたの許へ。それによって、あなたは聖霊のうちで沈められる。聖霊に満たされる。そのとき、今までの世界とは違う世界に生きる。ヨハネが宣教していた水の洗礼は、犯された罪たちの赦しへの悔い改めの洗礼である。それは、過去に犯された罪たちの赦しのために行われる。しかし、聖霊における洗礼は、根源的な罪の赦しへと我々を導く。過去に犯された罪たちの根源にある罪、つまり原罪の赦しである。

だとすれば、小道づくりは、過去に犯された罪たちを認めることだと言える。認めた上で、我々はそのような罪たちを犯させる根源的罪本体をイエスによって働かなくしていただく必要があるのだ。それが聖霊における洗礼なのである。つまり、我々現代のキリスト者が受ける洗礼は、水と聖霊との洗礼が一つとなっている洗礼なのである。なぜなら、主イエスはすでに来たり給うたからである。

さて、小道づくりをするためには、過去に犯された罪たちが如何なるものであろうと認められていなければならない。認めるということは、認識することである。しかし、一般的には、誰も罪を犯しているとは思っていない。それなのに、どうして罪を犯していると認めることができるであろうか。できないのである。それこそが問題なのである。我々は、我々の国の法律を犯していない。法律に従って生活している。それゆえに、罪はないと思っている。イエスの当時も同じように考えている人たちが大勢いた。そして、罪人と呼ばれる人たちもいたのである。彼らは刑務所に投獄されているわけではないが、罪人として排斥されていた。彼らが犯したのは、十戒に代表される律法である。もちろん、律法を犯すということは、倫理的な法律を犯すことであるが、投獄とまでは行かないものもある。神の名をみだりに唱えたとしても投獄されることはない。しかし、罪人とされる。その罪を判定するのは、ユダヤ社会の宗教的指導者たちであった。

罪人と判定された人たちは、罪の贖いを行って、赦されることになるが、それができない人たちもいた。贖いにはお金がかかる。つまり、貧乏人には罪の贖いはできない。従って、イエスの周りに集まってきたのは、貧しい人たち、病気という罪の状態になってお金が無くなった人たち、お金があっても罪人として排除されていた人たち、徴税人やローマの仕事を請け負っていた人たちである。社会的に排除されていた人たちが、「罪の赦しへの悔い改めの洗礼」を受けに来たのは当然である。彼らにようやく道が開かれたからである。洗礼者ヨハネはお金を求めることなく、ただ一度の洗礼によって、過去の罪たちが赦されることへ向けて、悔い改めることを勧めたからである。彼の許へ集まってきた人たちは、何とか罪の赦しを得たいと集まってきた。まさに、一人ひとりが自らの罪を認めて、集まってきた。彼らは、ヨハネに導かれて、自らの許へ主をお迎えする小道づくりをしていたのだ。

このような人たちの罪の認識の小道は、過去の罪の赦しなのだから、罪赦された後に犯された罪はどうにもならないことになる。再び、ヨハネの許に来て、そのたびに洗礼を受けるのだろうか。それゆえに、ヨハネは自分は弱いのだと言う。「わたしよりも強い方が、わたしの後から来たる」と。その方が沈める「聖霊」は、神の意志を実現する神の力を与えるお方である。この聖霊の中に沈められることを通して、人間の根源的な罪、単数の罪が抑えられる。それを行うのが主イエス・キリスト。クリスマスに生まれ給うお方。その十字架によって、我々の根源的罪を働かなくしてくださるお方。罪を足の下に踏みつけて、抑えてくださるお方。

我々のうちに住む罪、原罪としての罪は、我々を動かす。実際に犯される罪を実行させる力である。それゆえに、我々は罪を犯さないように対抗することによって、罪を犯すことになる。なぜなら、根源的罪は、我々が善を行っていると思っているときにも働いているからである。罪を犯さないようにしようとしているときにも働いている。罪を犯さなかったと思っているときにも働いている。つまり、自分の力で罪を抑えることができると思い上がっているとき、我々のうちに住む罪は大手を振って大通りを歩いているのだ。この罪が大通りを歩かないためには、小道を通って主がわたしのもとに来ていただくことが必要なのである。

謙虚に、低きところに、主は来たり給う。自分の力に頼らないところに来たり給う。自分ではどうにもしようがないと思える魂に来たり給う。お金がないから贖いができないという思考は、お金があれば贖いが可能だという思考である。そのような思考は、低き思考、謙虚な思考ではない。自らの力に頼る思考と同じである。それは真実の悔い改めではない。洗礼者ヨハネが宣教したのも、自分の力に頼ることなく、神の力に依り頼むことであった。神に祈るところへと導かれた魂が、小道を作っている。自分と神、救い主との間に小道ができている。このような存在の許へと主は入り来たり給う。そのための備え、整えを行ったのが洗礼者ヨハネである。

この人は、「声」として生きた。「声」は消えていくが、「声」が語っていた内容は消えない。「声」を聴いた人のうちに残っている。その声を再び聴くには、自らが声を出して、声を繰り返すことである。それによって、ヨハネの声は増えていく。ヨハネの語りは自らと他者に伝えることが可能となる。これが、「声」の機能である。ヨハネは、神の声を聴き、神の声を繰り返し語り、神の声を一人ひとりに与えた。自らは「声」として消えていくが、神の声は消えない。ヨハネは、このように生きた。このように、一人ひとりの小道づくりに仕えた。一人ひとりが主イエスを迎えることができるように仕えた。彼は、主の先駆者として生きた。わたしよりも強い方が来たると、謙虚に引き下がりながら生きた。神にこそ力があると生きた。人間の弱さ、儚さを知っていた。そこに留まったのが洗礼者ヨハネである。

我々が待ち望むクリスマスを迎えるために、洗礼者ヨハネが語るように、主の小道を作っていこう。このわたしの許へ主が生まれ給うように。このわたしのうちに、主が来たり給うように。このわたしの根源的罪を抑え給う主の力が、わたしのうちに働きますようにと祈りながら、待降節の日々を過ごしていこう。

主の来たり給う道は、それぞれの小道。あなたの許へと主を迎える小道。わたしの小道を通っていただくために、わたしの小道をまっすぐに作ろう。主がまっすぐに来てくださるように。あなたの心にまっすぐに入って来てくださるように。

祈ります。

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