「悩む者の家へ」

2020年12月13日(待降節第3主日)
ヨハネによる福音書1章19節~28節

「このことは、ベタニアにおいて生じた」と述べられている。洗礼者ヨハネの証言、「あなたがたの知らないお方」の来臨を語る証言が生じたのは、ベタニアにおいてであった。「ベタニア」という地名は、旧約聖書には出てこない。新約聖書、しかもイエスの受難の出来事と関連する箇所で出てくる。「ベタニア」には、マルタとマリア、ラザロという兄弟姉妹が住んでいた。ライ病人シモンの家も「ベタニア」にあった。この地名は、ヘブライ語ではベイト・アニア、悩む者の家という意味である。病の人たちが多くいた村なのだろうか。ラザロも一度死んだ。マルタとマリアとラザロの兄弟姉妹には親への言及もない。彼らも何か悩みを生きていたのだろうか。悩みを抱えている者たちが住んでいたところが「ベタニア」であろう。イエスが来られるのは「悩む者の家」である。洗礼者ヨハネの証言が生じたのは「ベタニア」であったとあえて述べられているのは、洗礼者ヨハネの後に来たり給うイエスの来臨は「悩む者の家へ」の来臨だということである。しかし、多くの者はイエスの来臨を知らない。彼らは何も待ち望むことがない。なぜなら、自らの現状に満足し、現状を維持すれば良いと考えているからである。それゆえに、彼らは現状が変わってしまうことは望まない。現状が変わらないような救い、自らが何も変えなくても良いような救いを望んでいる。ローマ帝国の支配から解放されて、現状を保持しつつ、自らは何も損をすることなく、さらに良くなるような救いを望んでいる。それゆえに、彼らは悩まない。悩むとすれば、現状が変化して、自らも変化せざるを得ないときであろう。このような存在には、イエスは知られることはない。

悩む者たちがイエスを知る。悩む者たちがイエスの許に来る。悩む者たちがイエスの救いを受ける。これが、イエスがこの世に来たり給うた使命。悩む者たちの家へと来たり給うたイエス。このお方も、悩みを知るお方。悩み苦しみの中で、神の子としての力を示し給うたお方。神の子は神の意志に従うことを示し給うた。神の意志を生きるのが神の子だと示し給うた。父なる神の憐れみを教えてくださるのはイエス。憐れみは、救いを受け取る者にしか注がれない。いや、注がれている憐れみを受け取る者だけが、注がれていることを知る。それゆえに、憐れみを乞い願う者だけが、救われる。それが、洗礼者ヨハネが証言したことである。

悩む者は、悩みに縛られ、身動きできない。悩みなき者たちが先を急ぐ中、悩む者は置き去りにされる。それゆえに、神は、悩む者の家へと救いを派遣し給う。身動きできない存在は救いを喜び受け入れるであろう。先を急ぐ、悩みなき者は来たるべき救いなど待ってはいない。自分が救いを獲得するために先を急ぐ。この争いの中で、身動きできない存在は置き去りとなる。なぜそうなるのか。共に生きる世界など誰も求めてはいないからである。

人間は、共に生きることを善きことだと口にする。しかし、自分が遅れを取ることになるのを恐れ、共に生きるべき存在を置き去りにして、我先に道を急ぐ。他者のことよりも自分のことが大事なのだ。それが罪人なのだから、仕方がない。そう開き直って、見捨てて先を急ぐ。このような世界に、イエスは来たり給うた。洗礼者ヨハネの後から来るお方は、後に残された者たちのところへと来たるであろう。先の者たち、力ある者たちは、後から来たる存在など求めてはいないからである。

だとすれば、洗礼者ヨハネよりも遅れて来たることにこそ意味がある。遅れて、後から来たるお方こそ、救いを祈り求める存在のところへと来たる。救われ難い存在の許へ来たる。このお方こそが救いである。福音である。なぜなら、救われ難い存在が救われてこそ、福音だと言えるからである。それゆえに、我々キリスト者は自らが遅れを取ってもなお、キリストに倣いつつ、他者の救いのために仕える。後に残された者たちのために仕えることを基本として生きる。それが、キリスト者として生きること。キリストがこのわたしを救い給うたのは、わたしが力なく、後に残された存在だったからである。後に残され、先を急ぐ者たちに追いつくこと能わず、座しているしかなかった。そのような存在のために、イエスは来たり給うた。これこそが真実に救いなのである。

「悩む者の家へ」と向かう神の救い。この救いを宣言し、もたらすお方が、ヨハネの後から来たるイエス。小さく、弱き者たちを救うために来たる。力なく、座すしかない者たちを救うために来たる。ただ、神に頼るしかない存在のために来たる。それこそが救い。それこそが救い主。それこそが憐れみ。それゆえに、神の憐れみに依り頼む者だけがこの救いを受け取る。取り残された者たちが救われてこそ、真実に救いである。悩みの中に座している者が救われなければ神の憐れみはどこに注がれるであろう。他者を置き去りにする者が救われるのか。置き去りにして、自分の救いを獲得したとしても、共に生きる世界は来たらない。互いに愛する世界は来たらない。取り残される悲しみを知る者が救いを宣べ伝えるであろう、このわたしでさえ救われたのだと。悩みの中にある人たちの許へ向かうのは、取り残される悲しみを知っている者。ヨハネが言う「知らないお方」は、知ろうとしないならば「知られない」ままに取り残されている。置き去りにされた存在も、知られないままに残されている。しかし、そこにこそ、父なる神の家がある。誰からも顧みられないところに主は来たり給うのだから。

「わたしは声、荒野の中で叫んでいる」と洗礼者ヨハネは言う。「荒野」は悩み苦しみの場所。悩み苦しみの中で叫んでいる声は言う。「主の道をまっすぐにせよ」と。主がまっすぐに来たるようにせよと言う。それは、自らがまっすぐに主を迎えよという声。まっすぐに主を迎えるのは、自分の力に頼ることができない存在。ただ、神に祈るしかない存在。先に進むことができない存在。そのような存在が、自らの救い主をまっすぐに迎えるであろう。そのような存在が、まっすぐに来たり給うお方を喜ぶであろう。そのような存在が、まっすぐに神を仰ぐであろう。神は、まっすぐに来たり、まっすぐに救い給う、悩む者たちを。

我々人間は、神を置き去りにして、自らの力に依り頼み、神を忘れて救われようとする。他者を押しのけて救われようとする。それは救いではない。自分の力で獲得する争いである。争いの中に、救いはない。受け入れる中に救いがある。悩みの中に救いがある。苦難の中に救いがある。使徒パウロが言う如く、苦難は忍耐を働き生み出し、忍耐は練達を働き生み出し、練達は希望を働き生み出す。忍耐して待つ者にこそ、希望は希望として輝く。苦難の中に忍耐せざるを得ない存在が救われる。救いは向こうからやって来る。

クリスマスに生まれ給う嬰児は、神の許から来たり給う救い。嬰児もまた自らの力に頼ることができない存在。誰かの助けを必要としている存在。この嬰児が示し給う救いは、ただ受け取る救い。我々が待ち望むならば、救いは来たり給うと嬰児は告げる。救いは向こうから来たる。神の許から来たる。神の許にこそ救いがある。この救いを指し示すために、嬰児として救い主は生まれ給う。

待降節を生きる我々は、嬰児を待ち望む。嬰児の救いを待ち望む。嬰児に救いの光を見るために。あなたを照らす光はまっすぐにあなたに来たり給う。あなたはただ迎えるだけで良い。あなたを愛し給うお方は、あなたを知っている。あなたが知らないとしても、救い主はあなたを知っている。あなたが力なく、座していることを知っている。そのあなたのために、嬰児は生まれ給う。あなたのうちに生きるために、生まれ給う。あなたの救いを実現するために生まれ給う。

クリスマスに生まれ給うお方を喜び迎える者に幸いあれ。あなたの救いは来たり給う。あなたの救いは飼い葉桶に。あなたのいのちは馬小屋に。あなたの魂の主は嬰児として生まれ給う。貧しさと悩みの中に生まれ給う主を迎える道をまっすぐにしよう。まっすぐに来たる主を迎えるために。

祈ります。

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