「救いの角」

2020年12月20日(待降節第4主日)
ルカによる福音書1章67節~79節

「彼の父、ザカリアは聖霊に満たされた。そして、彼は預言した、こう言って」と記されている。彼が預言したのは、ダビデの家において、「わたしたちに救いの角を起こした」お方、イスラエルの主なる神への讃美であった。「起こした」という言葉は復活を意味する言葉である。つまり、それまで見失われて、誰も使用することができなかった「救いの角」が復活したのだと預言しているのである。この「救いの角」が主イエス・キリストである。

「救いの角」とはいったい何か。エルサレムの神殿の至聖所にある祭壇の四隅に生えていた角のことである。罪を犯した人が、この祭壇の角に無事につかまることができたならば、彼は罪を赦されたと言われている。「救いの角」とはただつかまるだけで罪赦される救いを供給する機能を持っていた。至聖所に辿り着くのは至難の業であったからであろうか。この「救いの角」が復活して、誰にでも使用可能になるという預言。それが、ザカリアが預言したことである。それゆえに、「我らは恐れなく、敵たちの手から救われ、彼に仕える」と言われている。それはアブラハムへの神の誓いに基づいて起こされる「救いの角」だと預言されている。

洗礼者ヨハネの父ザカリアが預言したのは、無償の救いである。この救いは、イエス・キリストのことであるが、預言にはイエスのことは何も出てこない。ザカリアはイエスのことは知らないのである。しかし、彼の口が開かれたことによって、彼は預言した。つまり、神が彼に言葉を与えた。彼の言葉は神の言に感応した言葉。それが預言である。この預言によって証しされている救いは無償の救いである。救われる資格のない者が救われる。救われ難い者が救われる。それがザカリアの預言において語られている「救いの角」である。

我々は、救われるために何もできない。ただ、「救いの角」にすがりつくだけ。それだけで救われる。それだけが真実に救いである。なぜなら、我々が資格を獲得して救われるとすれば、それは我々の力に帰されるからである。我々には救われる力は無い。力無き者が救われてこそ真実に救いである。そのために「救いの角」は起こされなければならない。人間が何も誇ることができないように起こされなければならない。人間は自ら救われることはない。ただ、神の憐れみによって救われる。我々が自らの罪を認め、救われ難い人間であることを受け入れるとき、「救いの角」はそこに立っている。そこに辿り着くだけで良い。

ザカリアは主の言葉を信じなかったがゆえに、口がきけなくなった。しかし、神の言葉に従って、生まれた息子の名を「ヨハネ」と書いたとき、口が開かれた。彼は口がきけなかった間、自らの罪を思わされたことであろう。自らが神の力を信じなかったことを思わされたことであろう。そして、神の言葉に従って、息子の名を記したとき、彼の口は開かれた。名を記すだけ、神の言葉に従うだけ、彼には口を開く力は無かった。ただ、神だけが彼の口を閉じ、彼の口を開く力がある。この事実を受け入れたとき、彼は預言することになった。神の言葉を語ることになった。彼のうちに起こされた信仰によって、彼は預言した。信仰とは神への従順のことである。父ザカリアは神に従順にされたとき、預言することになった。この従順が「救いの角」を預言する信仰を起こした。ザカリアは、自らの罪を自覚し、神の力に信頼できなかった自分を知った。そのとき、彼は口を開かれ、「救いの角」を預言したのだ。

ザカリアには沈黙の期間が必要であった。自らのうちにある罪を見つめる期間。自らの罪を自覚する期間。自らの愚かさを知る期間。この期間があって、彼は口を開かれる救いを経験した。「救いの角」に辿り着いた。彼は自らの救いの経験に基づいて、預言した。自分には何も力は無く、ただ沈黙するしかないが、神の力は力強く働いていることを経験したザカリア。彼は、まさに「救いの角」によって救われた。神の憐れみによって救われた。我々の救いは、ただ神の憐れみによる。ただ、「救いの角」にすがるだけで良い。愚かにも、神の力を疑ったことをザカリアは知り、神の力が如何に力強いかを知った。

口を開くのも神。言葉を与えるのも神。神によって、世界が創造されたように、我々の体も魂も神によって支配されている。神の力によって、我々は生きている。神の力によって救われる。アブラハムへの神の誓いの成就は、神によって実現する。この力ある神を讃美するザカリア。彼の沈黙の期間の後に、讃美の言葉が口から溢れ出る。我々が過ごしている待降節は、待ち望む期間。神の許から訪れる救いを待ち望む期間。ザカリアと共に、我々は自らの罪を見つめ、自らの救いを実現し給うお方を待ち望む。救いは向こうからやって来る。神の許から訪れる。神が救い給う。我々には救われる力は無い。何もない我々を憐れんでくださるお方がおられる。この方こそ、救い主イエスをマリアの胎に宿らせ給うたお方。馬小屋に生まれさせ給うたお方。幼子を飼い葉桶に寝かせ給うたお方。力無き幼子が「救いの角」。我らは、この幼子にすがる。救い主とは思われないような幼子にすがる。「救いの角」も祭壇に生えているただの「角」。「角」にすがるだけで救われる。ただそこにあるだけの「角」によって救いが約束されている。この不思議な「救いの角」の信仰によって、証しされている主イエスの誕生は、主イエスの受難と復活を含んでいる。これらすべてが神の救いの御業。「救いの角」としてのイエスの生涯。十字架と復活を通して「救いの角」として生きてくださるイエス。このお方が生まれる。

我々が待ち望む救いは、我々が来たらせることはできない。神が来たらせ給う。神が実現し給う。神が与え給う。我らの主、イエス・キリストは神によって起こされ、我々に与えられた「救いの角」。このお方にすがりつく信仰を起こされて、我らは救われた。我らの救いは、我らの力によらず、神の憐れみによって来たる。力無き幼子の姿で来たる。ただ、横たわる幼子として来たる。そこに救いがあるなどとは思えないところに来たる。救いは、祭壇の四隅に生えているだけの「角」にある。いや、その「角」に触れた者は救われるという神の約束にこそ、救いがある。アブラハムへの誓いは、約束である。「救いの角」の信仰も約束である。約束してくださった神が救いを実現してくださる。祭壇に生えている「角」自体には何の力も無いが、その「角」にすがる者は救われると、神が約束してくださった。この約束に信頼する者は救われる。それだけである。

イエス・キリストが「救いの角」であるならば、イエスは救いのしるしである。このしるしを約束してくださる神に信頼することが信仰である。しるしそのものと神の約束が「救いの角」の全体である。神の約束の通りに生えている「救いの角」がイエス・キリストであり、イエスが「救いの角」である限り、イエスは神の約束を体現している。そして、実際に我々を救い給う、神の約束に従って。この約束を信頼する信仰もまた、神から来たる。ザカリアのうちに起こされた信仰は、神から来たった。神が口を開き、神が言葉を与え、神が預言させた。神が「救いの角」を起こし、神が「救いの角」にすがらせ給う。こうして、我々は神によって救われる。これが、ザカリアが預言したことである。

ダビデが詩編18編で歌うように、「主はわたしの岩、砦、逃れ場。わたしの神、大岩、避け所。わたしの盾、救いの角、砦の塔」。我々がこの信仰に生きるために、主イエスは生まれ給う。クリスマスに生まれる幼子が、あなたの「救いの角」として生きてくださる。どんなときにも、あなたのすぐそばに「救いの角」がある。あなたのうちに起こされた信仰が「救いの角」を見出す。

主は、この信仰を保つために、ご自身の体と血を我々に与えてくださる。イエスの体と血が、我々のうちなる信仰を新たにしてくださる。我々が無償で救われたことを新たに知らしめてくださる。あなたの救いのために、生まれ、十字架と復活を通して、「救いの角」として起こされたお方を、今日も共にいただこう。あなたは愛されている者。神の憐れみに包まれている者。救いの恵みに与った者。

祈ります。

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