「みどりごの平和」

2020年12月24日(クリスマス)
ルカによる福音書2章1節~20節

「なぜなら、みどりごが生まれたから、わたしたちのために。息子が、与えられた、わたしたちのために。支配が生じている、彼の肩の上に。そして、呼ばれる、彼の名は。驚くべき慰め主。力強い神。永遠の父。平和の王子と」とイザヤは預言している。「平和の王子」として生まれたみどりごについての預言は、イエス・キリストの誕生において実現した。みどりごが「平和の王子」。しかし、「永遠の父」とも言われるのはどうしてなのか。それは神だから。神が生まれたとイザヤは預言した。もちろん、象徴としての表現だと誰もが思うであろう。しかし、たとえ象徴表現であるとしても、「平和の王子」の誕生は、神の誕生だということである。イエスは神として誕生した。それは新しい神なのか。神ヤーウェが預言させたイザヤの言葉に従えば、神ヤーウェの息子として生まれた神としてのイエス・キリストなのである。ニケア信条が告白するように「神と同質」の存在がイエス・キリストである。このお方は「平和の王子」であり、永遠から永遠まで支配し給うお方である。我々が今宵祝っている「平和のみどりご」の誕生、その平和とは如何なる平和なのか。

「みどりご」そのものは「平和」の中に安らっている。生まれたての赤ん坊は「平和」である。なぜなら、何ものにも汚されていないからである。純粋ないのちとして生きているからである。みどりごは平和そのものである。何ものにも汚れず、何も思い煩うことなく、何も不足することなく、ただ母の腕に安らっているみどりご。いや、父の懐に安らっているみどりご。それがイエス・キリストである。母マリアの腕に安らうように見えて、実は父なる神の息子として、父の懐に安らっている。このみどりごは誕生の初めから平和である。父への信頼のうちに安らっているからである。

そのみどりごを見て、羊飼いたちは平和を得る。苦しい生活、苦しい境遇、苦しい仕事。苦難の中に生活している羊飼いたちが聴いた天使の言葉は「あなたがたに生まれた、救い主が」という言葉であった。苦しみの中で、自分たちの境遇を嘆きつつも、誠実に生きていた羊飼いたち。彼らに救い主が生まれたと天使は告げた。どこに救いがあるのか。彼らの境遇が変わるのか。彼らが労苦する必要が無くなるのか。いや、境遇も生活も楽にはならないであろう。しかし、彼らには苦しみを乗り越える力が湧き起こってくる。みどりごを見て、湧き起こってくる。なぜなら、神は我々を見捨ててはおられないと、彼らは知ったからである。

苦難は誰にもでもある。この世に生きている限り、この肉体を持って生きている限り、誰にでも苦難はある。苦難のない生はない。誰もが苦難の中に生まれる。苦しみを通って生まれる。クリスマスのみどりごもまた、旅の途中で生まれた。暖かな家はなく、馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされた。しかし、みどりごはそのような中にあって輝いている。苦難を苦難とは思いもせず、ただ飼い葉桶に横たえられている。自らが生まれざるを得なかった境遇を純粋に受け入れて生きている。その姿にこそ「平和」がある。羊飼いたちは、このみどりごを見て、力を得た。苦難を引き受けていく力を得た。不平を言うことなく、与えられた寝床を楽しんでいるみどりご。与えられた環境を受け入れているみどりご。与えられたものはすべて神の恵みと受け入れているみどりご。彼は平和を生きている。羊飼いたちは、自分たちのために生まれてくださった救い主を見た。みどりごの救い主を見た。みどりごの平和を生きている救い主を見た。それは、神が天使を通して語った通りだった。それゆえに、神は真実を与え給うと信頼した。

みどりごの平和は、神の真実。みどりごの平和は、神の愛。みどりごの平和は、ありのままのいのち。与えられたいのちの輝きが飼い葉桶に輝いている。貧しい飼い葉桶、暗い馬小屋、そこに輝いているみどりごの平和。如何に貧しくとも、如何に暗くとも、ありのままのいのちは輝いている。この事実を見た羊飼いたち。彼らは、神を讃美する。ただ、みどりごが馬小屋の飼い葉桶にいただけなのに、神を讃美する。神の真実がみどりごに現れていた。見捨てられたように思える馬小屋に輝いている。

このみどりごのように生きて行く力は、我々の力ではない。神の力である。神が生かし、神が輝かせ、神が現し給う力。この力に満ちているみどりごを見た。みどりごは自らの力を見せはしない。神の不思議な力、神の憐れみ、神の愛によって生かされている自らを見せている。誰にでも与えられていた力。羊飼いたちにも与えられていた力。我々にも与えられていた力。今は見えなくなっている力。今は見失っている力。それがこのみどりごのうちに輝いている。羊飼いたちはこの光を見た。このお方こそ、「驚くべき慰め主」。このお方こそ、「力強い神」。このお方こそ、「永遠の父」の息子、「平和の王子」。羊飼いたちは、みどりごの平和に、父なる神の力を見て、慰めと励ましを受けた。神を讃美するほどに力づけられた。

この力を見出したのは、彼らが苦しみを知っていたから。悲しみを経験していたから。貧しさに呻吟していたから。裕福な者、富んでいる者には見出し得ない裸のいのちの真実。苦しみ、悲しみの中に生きていた羊飼いたちが見出した神の真実。それが「みどりごの平和」である。

「平和の王子」が与えてくださる平和。それはヘブライ語でシャローム。何も欠けることなき状態。彼ら羊飼いたちは思っていた。自分たちは欠けている。自分たちには何もない。自分たちは満たされていない。しかし、何もないみどりごが満たされているいのちは、自分たちにも与えられたいのち。みどりごが生きていると同じいのちを与えられていた。裸のいのちだけが真実にわたし。真実に神に造られたわたし。富を持たずとも、わたしは生かされている。地位がなくとも、わたしは生かされている。生かし給うお方がいて、わたしはここにいる。みどりごはこの神を指し示す。みどりごは、神を指し示す神。救い主。慰め主。みどりごのいのちに触れた羊飼いたちが神を讃美して帰って行く。彼らが力に満たされて帰っていく。うちひしがれていた羊飼いが雄々しく立っていく。みどりごに出会うことで、力を回復された。この世の価値に捕らわれていたところから解放された。真実なる裸のいのちへと解放された。

苦しみも悲しみも貧しさも、誰の上にも臨むであろう。人間はその中で生きるべく生まれてくる。苦しみが罪の結果だとしても、罪を取り除くのは我々人間ではない。神が取り除き、神が解放し給う。囚われ人を解放し、自由の喜びの中に生かし給うお方。みどりごは羊飼いたちに平和を与えてくださった。今宵、みどりごに出会うために集められた我らも導かれている。みどりごの許へと導かれて、ここにやって来た。馬小屋に、飼い葉桶の側にやってきた。みどりごが安らいでいる場所へ、やって来た。罪は、我々が捕らわれているもの。捕らわれから解放されたとき、我々は自由に生きることができる。飼い葉桶のみどりごのように、貧しさの中で輝くことができる。苦難の中で、喜ぶことができる。あなたのために生まれ給うたみどりごの平和に与ろう。あなたのために生まれ給うたお方と共に生きて行こう。あなたは見捨てられることはない。あなたにいのちを与え給うたお方は真実なるお方。如何なるところに置かれようとも、あなたには神の力が宿っている。みどりごの平和な姿があなたに与えられる。あなたには何も欠けるものがない。みどり野のに伏させ、憩の水際に伴い給う力ある神がおられる。イエス・キリストが今宵生まれ給うた。あなたのために生まれ給うた。

クリスマスのみどりごは、喜び生きるいのちを新たにしてくださる。ご自身の体と血をあなたに与え、ご自身と同じ形へと形作ってくださる。みどりごの平和を生きる者としてくださる。あなたは幸いな者。あなたは愛されている。あなたのいのちはそのままで美しい。みどりごが与え給う平和の中で輝いて行くことができる。感謝して、聖餐に与り、みどりごと共に生きて行こう。

クリスマスおめでとうございます。

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