「しるし」

2020年12月27日(降誕後主日)
ヨハネによる福音書2章1節~11節

「このことを行った、しるしたちの最初として、イエスは、ガリラヤのカナにおいて」と言われている。イエスが行った多くの「しるしたちの最初」がカナでのぶどう酒の奇跡であった。この奇跡をヨハネは「しるし」セーメイオンと呼ぶ。「しるし」とは、本体を指し示すものであり、それ自体は本体ではない。従って、奇跡的な出来事自体が如何に不可思議であろうとも、その出来事に目を奪われてはならない。その出来事が指し示している本体に目を向けるようにと行われる「しるし」だからである。ところが、我々人間は自分の目に見える、現れているものにこだわり、それを現すお方自体、それを現す本体を見ようとはしない。それゆえに、給仕長は花婿に言う。最後まで、一番良いぶどう酒を取っておいたと。最初に出すか、最後に出すかにこだわっている給仕長。それがどこから来たかを知らず、知ろうともしない給仕長。ここに人間の罪の問題が潜んでいる。

我々は、いつ如何なるときでも、自分の見ていることだけに捕らわれる。捕らわれて、抜け出せなくなる。こうして、我々はいつも見失う、本質を。それが我々の問題である。アダムとエヴァが陥った罪、原罪として受け継がれている我々の罪は、その本質を理解しようとしない罪。神の戒めに込められた神の愛を理解しようとしない罪。神の意志を人間の意志と同じように考えてしまう罪。我々は、自分が理解できるものだけを理解する。理解できないものに隠されている本体を理解しようとはしない。理解できることだけがすべてだと思い込む。理解できないことがどれだけあろうと、理解できるところでしか考えない。我々の世界が生き難くされているのは、このような我々人間の理解の狭さゆえである。

我々人間は狭い世界を構築し、その世界を自分で動かそうとする。給仕長も、見えているところだけで判断し、最後まで良いものを取っておくという外面的なことだけを云々する。どうして、そのようなことになったのかを知ろうとはしない。普通ならば、最後に良いものを取っておくはずはない。それまでに出された劣ったワインを知らないはずはない。それなのに、どうして最後までこの良いワインがあるのかと疑問にも思わない。見えるところだけを見て、驚き、批判する。それが罪人である我々人間の現実。

ただ与えられたものに感謝するならばまだしも、そこに勝手な判断を差し挟む。自分の価値観で、善悪を判断する。最良のワインが何故に、ここにあるのかを自らにも、誰にも問うことはない。このような人間には、神の世界、神の意志は理解できない。理解できないのが人間なのに、理解できていると思っている。これこそ傲慢という罪である。労苦することなく、ただ与えられている最良のワインを判断しようとする。労苦した奴隷たちだけが、どこから来たのかを知っている。それがイエスの現した栄光であり、隠された栄光である。

この栄光が現れるために、労苦した奴隷たちは、イエスの言葉に素直に従った。何が起こるかも分からずに、命じられたことに従った。彼らは、イエスの言葉に従って、イエスの栄光に仕えた。瓶の縁まで水を満たす行為は、虚しく思える。しかし、それが最良のワインになっている。虚しさの果てに、最良のものが与えられる。これが、イエスが現した栄光。イエスが指し示した神の意志。イエスが行った「しるし」の意味。それを知るのは、人知れず労苦した者たち。婚宴の客も、花婿も、給仕長も知らない。華やかな表舞台には知られることのない栄光がある。それがイエスの栄光。神の栄光。

我々人間が求める栄光とは正反対の側にある栄光。陰に隠れている栄光。隠されていながら、多くの者を楽しませる栄光。知られずに、多くの者の喜びのために仕える栄光。これがイエスの栄光であり「しるし」である。この「しるし」が指し示すのはイエスの十字架。十字架の栄光である。誰にも知られることなく、多くの人のために献げられたイエスの体。多くの人の喜びのために仕えるイエスの魂。十字架の上で、イエスが完成し給う世界は、隠された世界。隠されているようで、現れている世界。誰にも知られないようで、知られている世界。目をこらしてみれば見えてくる世界。十字架という「しるし」が指し示し、見せる栄光は、そのような世界である。

多くの隠れた働きがある。多くの顧みられない働きがある。多くの見捨てられた者たちもいる。イエスの栄光は、見えないところで現され、隠された働きを栄光に変える。我々が行う隠れた業、認められない働きも、イエスの栄光の御業に用いられる。我々がイエスの言葉に従って行う働きはすべてイエスの栄光を現す。イエスの言葉に従って、疑うことなく、純粋に自らの働きを為す者は幸いである。イエスはその人をご自身と同じ形へと変えてくださる。十字架において変えてくださる。虚しさに沈む必要は無い。この世に虚しい業はない。如何なる業であろうと、神の意志に従って用いられる。純粋に献げられた働きは神の御業として現れる。

あなたの虚しさも、儚さも、すべては神の栄光のために用いられる。あなたが落胆していたとしても、神は希望である。神の意志があなたを生かし給う。十字架のイエスは、あなたの虚しさをご存知である。ご自身も虚しさを経験したお方は、すべてをご存知である。儚いいのちも神の栄光を現す。ただ、生かされていることにおいて神の栄光を現す。我々は、自分の力で自分を輝かせるわけではない。神が輝くとき、我々も神の栄光に包まれる。あなたが、神を見上げて献げる働きを神は喜び受け入れてくださる。他者の喜びに仕える働きは尊い。善き働きは、神の善なる意志から生まれた働きだからである。

善きものは、最後に至るまで、善きもの。劣るものは何もない。最後に至るまで善きものが残されている。この神の意志を信じることも善き業である。奴隷たちは何も知らず、イエスの言葉に従ったが、彼らの働きは善き働きとされた。素直に従うところに、善き働きは生じる。神が生じさせてくださる。我々は、ただ神に献げるのみ。最後には、神が栄光を現してくださる。ご自身の栄光を現してくださる。この信仰のうちに世界は善き世界となる。創造の初めに神がご覧になった「極めて良い」世界となる。

これまでの歩みを振り返り、我々の働きは如何なる働きであったかを考えてみよう。誰にも知られず、献げられた働きを神が完成してくださった。神の完成によってすべては「極めて良し」の世界として結実する。我々が包まれている礼拝堂は、我々が神に献げたものの結実。如何に弱くとも、小さくとも、一人ひとりが献げたものを神は用いてくださった。完成へと導いてくださった。この器を与えられた我々は、今一度、神の栄光を仰ぎ見よう。この礼拝堂に満ち溢れている神の栄光を仰ぎ見よう。この建物ではなく、建物を現してくださったお方の栄光を仰ぎ見よう。

我々の働きも、この奴隷たちの働きと同じ。どうなるのかも分からないままに、神の完成を望み見ながら献げ続けた。汲めども汲めども届かない瓶の縁に落胆しながらも、汲み続けた。我々が献げたものは、我々のものではない。神が与え給うたもの。神が与え給うた水が最良のワインに変えられたように、神が与え給うたものが「極めて良い」ものとして結実した。

この一年も労苦多い一年であった。労苦多く、実り少ないと思うこともあった。しかし、神は今我らをここまで導き給うた。神は、我々に「極めて良い」世界を与えたいと願っておられる。この神の意志があるがゆえに、我々は虚しくとも努めることができる。虚しくとも励むことができる。貧しくとも与えることができる。イエスが、十字架の上で、何もないお方としてすべてのものを我々に与え給うたように、我々もキリストに従い進み行こう。これまでの労苦に倍するものを我々は見ることができる。我々が献げたものは取るに足りないものかも知れない。しかし、神は喜び受け入れてくださる。ご自身の御業のために用いてくださる。献げる喜びを新たにしながら、新しい一年に備えていこう。隠された神の御業を見るために。

祈ります。

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