「恵みの年」

2021年1月1日(新年礼拝)
ルカによる福音書4章16節~21節

「主の喜び受け入れる年を宣言するために」と言われている。「主の恵みの年」と訳されている言葉は、「主の喜び受け入れる年」である。「恵み」とは、神が「喜び受け入れる」ことである。何かをもらうことが「恵み」なのではなく、神によって喜び受け入れられていることが「恵み」なのである。なぜなら、「喜び受け入れられている年」はその「年」全体として「すべて良し」という「年」だからである。この言葉の前に語られていることが、何かを与えられることのように思えるがゆえに「恵みの年」と訳されているのであろう。しかし、何かをいただくことが恵みなのではない。神がすべてを受け入れておられることが恵みなのである。受け入れられていること、喜ばれていることが恵みである。その中には、我々にとって苦難に思えることも含まれている。

もともと、我々の世界は神が創造されたとき「極めて良し」とご覧になった世界である。その世界を破壊したのは、善悪を判断しようとした我々の罪である。神が「極めて良し」とおっしゃった世界を、人間の都合に合わないことは「悪」と判断し、人間の都合に合ったことが「善」と判断される、そのような世界にしてしまったことが罪なのである。それゆえに、イザヤは「主が喜び受け入れ給う年」を宣言するお方を預言した。そのお方が来たるとき、我々の世界は創造の初めを回復され、極めて良しの世界を取り戻すであろう。その回復は、貧しき者たち、目の見えない者たち、圧迫されている者たちの解放の出来事だと宣言されている。つまり、欠けていると思わされ、排除されている者たちが受け入れられて、真実の神の世界を生きる者とされることである。それがイエスがこの世に来られた意味である。

我々が自らの罪によって見えなくしてしまった世界。互いに縛り合っている世界。思い込まされた人間たちが呻吟している世界。指導者は自分たちの都合の良い世界を構築し、末端の民の苦悩を知ろうとはしない世界。指導者たちが縛り付け、身動きできなくしてしまった世界。この世界が解放され、一人ひとりが喜び受け入れられる世界。この世界の到来は、イエスの来臨において開始された。この世の片隅に、馬小屋に生まれ給うたお方によって、開かれた世界。貧しさと苦しみと悲しみが宿った飼い葉桶に光り輝く神のいのち。イエスはこの世の片隅において呻吟している者たちに光を当てた。そこにこそ、神に祝福されたいのちが息づいていると光を当てた。神が喜び受け入れておられるいのちがある。神に受け入れられた世界がある。神に喜ばれている世界がある。見えなくされているが、そこにあるとイエスは宣言する。

このイエスの宣言がなければ、我々は気づくこともなく、喜びもなく生きていたであろう。イエスは、「あなたがたの耳の中で今日満たされた」聖書を宣言した。書かれたものである聖書が、耳を通して聞こえる「言葉」として満たされた。神が語られた言葉として聞こえてくる、イエスの口を通して。イエスが宣言した言葉が、神の言葉として聞こえてくる。それが、イエスがこの世に来られた使命。書かれた言葉が生ける言葉となるためにイエスは来てくださった。貧しさ、悲惨さ、苦難によって塞がれていた耳が、神の言葉を、神の語りかけを聴くように開かれる。イエスの宣言し給う言葉は、神の言葉を活き活きと響かせる。いのちを与える言葉となる。イエスが宣言するがゆえに、聴衆は聴くことができる。一人ひとりに語りかける言葉として聴くことができる。

語りかける言葉は、我々に向き合い給う神である。書かれた言葉ではなく、今わたしに向き合い、語りかけ給うお方を見る。言葉が立ち上がり、わたしのために神が立ち上がり給う。誰からも語りかけられることのなかった者たちが、貧しさの中、見えなくとも、圧迫の中で、神の声を聴く。神の意志を聴く。神の愛の世界を見る。神が喜び給う世界を見る。そのとき、彼らは貧しさを捨て、見えない目が開かれ、圧迫から解かれて、立ち上がる。神の言葉と共に立ち上がる。イエスの宣言が立ち上がらせる。この力ある言葉を聞いて、人々は驚くが、人間イエスを見て、神の言葉を捨てる。これが罪の誘惑。罪の働き。生ける神の言葉が、死んだ言葉となる。こうして、イエスの宣言は捨てられる。最終的に十字架に至るほどに捨てられる。元の木阿弥。再び、貧しさと悲しみと苦難の世界に閉じ込められる。

罪は、我々を解放したくないのだ。我々が苦しむことが悪しき者の喜びだから。我々が生きる意欲を失うことが悪しき者の願いだから。真実の世界を見ないように目を見えなくすることが、神に敵対する者の意志だから。人間は、この悪しき者の意志に支配され、振り回され、互いに抜け出さないように縛り合っている。この世界を解くのは神の力のみ。神に派遣されたイエスのみ。純粋に信頼することだけで、イエスの言葉が我々の現実に生きる。素直に耳を傾けるだけで、イエスの宣言が我々を生かす。悪しき者は愚かな人間を騙し、神に従わないように導くが、イエスの宣言はいつでも活き活きと復活する。イエスの言葉を聞き続ける者は、イエスの宣言によって復活する。原初のいのちを回復する。神が喜び受け入れ給ういのちを見出す。

あなたのいのちは、あなたのものではない。神が創造し、神があなたに与え、神がはぐくみ、神が生かし給ういのち。あなたのすべては神のもの。神が喜び給うもの。神に受け入れられたいのち。このいちのを見失ってはならないと、イエスは宣言し給う。宣言するイエスがこの世界を生き続けておられる。十字架において殺害されてもなお、今も生きておられる。悪しき者が葬り去ったイエスが今も語りかけ給う。このお方こそが我らの救い主。宣言をもたらし、宣言を生き、宣言を永遠に与え給う。イエスの言葉は復活する言葉。神の恵みの年が目の前にあると、イエスは宣言する。十字架の上から宣言する。あなたが喜びを生きるために、イエスは宣言しておられる。

この言葉を聴く者は幸いである。神の言葉があなたの耳の中で満たされたのだから。あなたの耳が神の言葉に満たされ、あなたの魂が喜びに満たされたのだから。あなたは幸いである。あなたは神の愛を受け取ったのだ。あなたに恵みとして与えられている年を受け取ったのだ。新しい一年も神の恵みの年。神が喜び給う年。神が極めて良しと見ておられる年。この年を開いていく喜びこそが、神の恵み。あなたの一日一日は喜びへの扉。神の恵みを数えながら、一日一日を生きて行こう。真実の世界が一つひとつ開かれていく日々を生きて行こう。善きものはすでに備えられている。あなたは、目と耳を開き給うみことばに身を任せ、受け入れるだけで良い。そのとき、あなたの日々は輝きを放つであろう。神の輝きを放つであろう。

我々の前に備えられている主の恵みの年を共に生きて行こう。この年も、神は極めて良い世界を与えてくださっている。イエスの宣言し給う世界を与えてくださっている。神にできないことは何もない。神の力が宿っている世界。神の力に満たされている世界。神の愛に満たされている世界。この世界に、あなたは置かれている。何も心配することはない。何もあなたを妨げるものはない。悪しきものがあなたに不安を起こしたとしても、礼拝に参与することによって、極めて良い世界が復活する。あなたの目の前にある世界は、神が創造し給うた世界。あなたが喜び生きるために、創造された世界。礼拝に参与する者は、週毎に極めて良き世界を回復され、真実のいのちを見出し、活き活きと生きていく。あなたの目が曇らされているとしても、みことばが目を開いてくださる。あなたの生活が苦しみに見えても、みことばが喜びを与えてくださる。あなたを圧迫する者から解放してくださる。あなたは祝福された者。神があなたに語りかける言葉を聴いている幸いな者。神はあなたの神。あなたの主。あなたの救い主。善きものは絶えること無く、あなたの目の前に備えられている。この恵みの年を感謝して生きて行こう。あなたを愛する神の愛が満たされたキリストの体と血に与って。

主の恵みの年、明けましておめでとうございます。

祈ります。

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