「小さき牧者」

2021年1月3日(顕現主日)
マタイによる福音書2章1節〜12節

「お前、ベツレヘム、ユダの地よ。決して、お前は小さき者として存在してはいない、ユダの氏族たちのうちで。なぜなら、お前から、出てくるであろうから、指導者が。その人は、牧するであろう、わたしの民、イスラエルを」と預言の言葉が引用されている。旧約聖書、ミカ書においては「小さき者である」となっているが、マタイは「小さき者として存在してはいない」と述べている。その理由が、「お前から指導者が出てくる」と言われているのだから、「小さき者」であることになる。指導者が出て来るがゆえに「小さき者として存在してはいない」と言われているからである。その「指導者」は「牧する」者、牧者であるから、小さき者である「牧者」が語られている。「小さき牧者」とは、ベツレヘムに生まれたイエス・キリストのことである。

この牧者は、神の民イスラエルを牧すると言われているが、神の民は羊に喩えられている。羊は物分かりが悪く、分別もつかない。そのような民は牧者がいなければ迷い歩いてしまうということである。「小さき牧者」は迷い歩く神の民を導く者。これが「ユダヤ人の王」だと、民の祭司長や律法学者たちは判断した。「小さき牧者」が「ユダヤ人の王」である。どうして、「小さき牧者」なのか。大いなる牧者ではなく、小さき牧者であるということは何を語っているのか。

大いなる牧者は、その大きさ、力強さにおいて導くであろう。しかし、小さき牧者はその力によって導くことはできない。ただ、民に信頼されていることによって導くのである。従って、「小さき牧者」は力を誇示することなく、ただ羊である民と同じところに立って、導く。羊である民の愚かさを知って、導く。力強く導く場合とは違って、自らも小さく弱き存在として導く。民の愚かさ、弱さ、哀れさを知っている。小さきがゆえに知っている。このような牧者が「ユダヤ人の王」だと律法学者たちは述べたのである。だとすれば、律法学者たちは、真実にユダヤ人を導く羊飼いは、小さく弱い存在として導き、小さく弱い存在の儚さを知っていると認識したことになる。ところが、この認識は知識としての認識であって、「王」として求める存在は、やはり大きな者、力強い者でなければならないと思っている。

我々現代のキリスト者も、神の力を信じるとは言え、力強い神を信じている。弱い神など信じることはない。弱さや小ささに信頼することはない。むしろ、同病相憐れむだけだと思っている。それでは自分たちの救いにはならないと思っている。自分たちが弱いとしても、神は強くなければならないと思っている。そうでなければ、自分たちを守ることはできないと考えるからである。ところが、弱く小さな指導者は、弱さの悲しさを知り、小ささの哀れさを知っている。強い牧者は、ついてくることができない弱い者を見捨てるであろう。抱えることができるとしても限界がある。強い牧者であっても、救うことができるのは少数である。しかし、小さき牧者は弱く小さい者と共に生きる。見捨てることはない。自分もまた見捨てられるような存在なのだから。それゆえに、小さき牧者は憐れみを知っている。そして、神に祈る。神の力を信頼する。弱さの中に現れる神の力を信頼する。その場合の神の力は、強さではなく、弱さとして現れる。弱さの中に、真実の強さがある。小ささの中に、真実の大きさがある。一番下にある存在が、実は世界を支えている。

我々の世界においても、一番上にある大いなる指導者として君臨している者たちは、自分たちを支えている末端の小さな存在を知らず、君臨している。自分たちに力があると思い込んでいる。ところが、世界は力なき、小さき存在によって成り立っている。小さき牧者は、多くの小さく弱き存在と共に生きている。末端から世界を支える小さき牧者。これが実は「王」である。そうでなければならないのだ。世の指導者と言われる者たちが勘違いしているだけである。彼らは、小さき存在を知らず、大きくなることばかりを追い求める。こうして、小さき存在から離れていく。これが世の指導者たちである。愚かなのはこのような者たち。自らの愚かさを知らず、賢く立ち回っていると思い込んでいる。ヘロデ王も同じであった。その配下も同じであった。「小さき牧者」が「ユダヤ人の王」だと認識した律法学者たちも同じであった。ただ、聖書が語っていることが真実であると述べることだけはできた。そして、信じることはできなかった。これが世の支配者たちの愚かさである。

このような愚かな存在が世界を動かしていると思い込んでいる中にあって、「小さき牧者」は真実に世界を動かす。小さきところで動かす。小さき民の中で動かす。それがイエス・キリストである。東から来た天文学の博士たちもまた、「ユダヤ人の王」を探すために、王宮にやって来たとき、間違ったのだ。そして、落胆して、王宮を出たとき、天の星が彼らを導いた。小さな星が導いた。救い主のいる場所へ。落胆の中で、歩み出したとき、彼らは見出した。小さき星の導きを受け入れた。自らの力のなさ、弱さ、愚かさを知ったとき、我々は見出すであろう、小さき牧者を。小さき牧者が生まれる場所を。それがベツレヘム。ユダの氏族の中で、最も小さき存在。最も小さき存在の中で、見出す「小さき牧者」。小さき嬰児が「ユダヤ人の王」であり「小さき牧者」であると、博士たちは見出した。

星の導きを受け入れた彼らが見出した小さき牧者。通常ならば、馬小屋などにいるはずもないと思える「ユダヤ人の王」が、飼い葉桶に横たわっている。その事実を受け入れることができたのは、彼らが落胆し、自らの愚かさを知ったからである。小さく、弱く、儚い自らを知った者が見出す「小さき牧者」。このお方は、見出されたときに、救いとなる。見出されたときに、指導者となる。如何なる指導を行うのかと言えば、小さき者たちが世界を動かしていることを知らせる指導である。世界は小さき者によって成り立っていると知らしめる指導である。小ささを受け入れるように牧する「小さき牧者」。このお方が、神の民を導く指導者であると見出す。

しかし、神の民全体を導くことが、小さき牧者に如何にして可能なのか。小さき者たちが神の民であることを受け入れることによって可能なのである。神は小さき存在を受け入れておられると知ることによって可能なのである。小さき者たちが受け入れられていることを知るとき、彼らは一人ひとり神の民として導かれる。一人ひとりが導かれなければならないことを知る。十把一絡げで導くのではない。一人ひとりが神に向かうことによって導かれる。「小さき牧者」はこのように牧し、導く。自らの力によらず、神に信頼するように導く。

イエス・キリストは、生まれたときから神の力によって「小さき牧者」であった。十字架に死ぬときにも「小さき牧者」であった。小さき者たちを訪ね歩いたときにも「小さき牧者」であった。病者、罪人が集まってきたときにも「小さき牧者」であった。彼らを受け入れることによって、神の民として形作る御業が行われた。イエス・キリストの働きは、世の指導者たちから見れば、小さく、弱い働きであろう。そのような働きでは、民を導くことなどできないと思われるであろう。力強く、引っ張っていかなければ、誰もついて来ないと思われるであろう。しかし、求める者はついて行く。真実なる牧者を求める者はついて行く。自らの小ささを知る者はついていく。神の真実を求める者はついて行く。こうして、小さき者たちの群れは神の民となる。これが、我々キリスト者の群れ、キリストの教会である。

顕現主日の今日、我々は改めて、小さき自らを認め、小さきところに目を注ぎ給う神に感謝しよう。イエス・キリストは、その体と血を持って、我々を神の民として形作ってくださる。十字架を通して示された神の愛が、我々を神の民としてくださる。新しい年、我々は小さき者たちとして、小さき牧者に従って進み行こう。主は、我らを永遠の野に導き、憩いの水の辺りで休ませてくださる。神の愛の力によって、雄々しく立っていく者としてくださる。この年も、我らはキリストに従い、小さき存在に注がれている神の愛を宣べ伝えて行こう。

祈ります。

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