「神の喜び」

2021年1月10日(主の洗礼日)
マルコによる福音書1章9節~11節

「あなたはわたしの息子。愛すべき者。あなたのうちで、わたしは好ましいと思う」と天から声が生じた。「わたしの心に適う者」と訳されている言葉は「あなたのうちで、わたしは好ましいと思う」である。それは神の喜びの表明。神の満足の言葉。神はイエスのうちで喜んでいる。イエスのうちで、満足している。それが「愛されている息子」である。それは、神の好ましさに適っているということであるがゆえに「わたしの心に適う者」と訳されている。神の心は喜びで満たされているということである。

イエスは神の喜びを生きている。神に喜ばれて生きている。イエスは神の息子として生きている。それがイエスの洗礼において語られていることである。ということは、イエスは神の息子であることを生きているがゆえに、神に喜ばれているということである。そこに神の喜びがある。我々を神が喜ぶとすれば、イエスのように神の息子、神の娘として生きるときである。それがイエスの洗礼において生じていること。このイエスの洗礼に我々が一つとされるときが我々の洗礼である。それゆえに、我々洗礼に与った者は、神の喜びを生きるようにされたのである。神がわたしのうちで好ましく思っておられる。あなたはわたしの息子、わたしの娘と喜んでおられる。洗礼を受けるということは、このような状態に入れられることである。それゆえに、我々洗礼を受けた者はイエスと同じく神のこどもである。もちろん、養子ではあるが神のこどもである。養子であるがゆえに、イエスのようにありのままで神の息子として生きることはできない。我々は、神の息子、娘として生きようとすることによって、イエスのように生きることになるのである。しかし、イエスはありのままで神の息子である。

我々はありのままでは罪人である。ありのままで良いというわけではない。ありのままを認めることによって、罪から抜け出すように生きるであろう。その抜けだしは我々の力でできるものではない。我々は生まれながらに罪人なのであり、我々が罪人ではないようになろうとしても、あくまで罪人である。この罪人が変わり得るとすれば、我々の力ではなく神の力によって変えていただくしかない。その始まりが我々の洗礼である。この洗礼の源泉は、イエスの洗礼である。

イエスは罪人ではなく、ありのままで神の息子である。それにも関わらず、イエスは洗礼を受ける。それは我々人間と同じところに立って、我々を救い出すためである。我々が罪の中から救い出されるために、イエスは洗礼を受けてくださった。我々が救い出されるとすれば、イエスが生きてくださった神の息子としての在り方に変えられるときである。この救いは、イエスを通して我々に来たる救いである。我々が悔い改めたとしても、我々の罪は我々のうちで働いて、悔い改めを無効化していく。悔い改めが働かないようにしてしまう。それが我々のうちに住む罪、原罪の働きである。この原罪から抜け出すことは我々人間には不可能なのである。それゆえに、イエスは洗礼を通して、我々と共に罪に死ぬために沈められてくださった。我々の罪が水の中で死を迎え、イエスと共に新しいいのちに生きるようになる。使徒パウロが言う如く、「わたしたちは埋葬された、彼と共に、死への洗礼を通して。その結果、キリストが起こされたように、死者たちの中から、父の栄光によって、そのようにまた、わたしたちが新しいいのちのうちで、歩くために」ということである。イエスは、洗礼という水への沈めを通して、死んだのだ。そして、水から上がることによって、神の息子として生きた。これが神の喜びだと言われている。従って、神の喜びは我々の洗礼において実現する。我々が自分自身のありのままの罪に死ぬことを通して、ようやく我々は自分の力ではなく神の力によって起こされる復活を生きるからである。

洗礼は復活を志向している。復活は、終わりの日に起こることではあるが、洗礼を通して、我々は終わりの日に至る。そこから、我々の日常が復活の日々になる。終わりから生きる者は、終わりを日々生きる。日常の中で生きる。それゆえに、我々洗礼を受けた者たちの日々は終わりの日々である。この世の時間の終わりまでの残りの日々である。この残りの日々を如何に生きるのかによって、我々が真実に終わりに至るか否かが分かれる。残りの日々がこれまでの日常と同じであるならば、終わりの日も日常である罪の中に生きているであろう。残りの日々が、復活の姿と同じであるならば、終わりの日にも我々は復活の新しいいのちに生きているであろう。

洗礼を受けただけでは、この世にある間は罪が残っている。この体の中に残っている。それゆえに、我々は日々罪との戦いの中で生きていくのである。この戦いを生きるのは我々自身の力ではない。神の力、イエスの復活の力である。イエスの力によって生きる洗礼を受けた者たちは、日々キリストと一つにされ続けて行く。少しずつ、我々はキリストと一つとされていく。使徒パウロが「キリストの形が形作られる」と言ったように、我々のうちにキリストの形が形作られて行く。このように、日常を生きる者は幸いである。

洗礼を受けただけで、礼拝に与ることなく、みことばを聴き続けることなき者は、復活のいのちを保持することはできない。我々のうちに住む原罪はそれほどに強く、我々を引きずり込むのだ。この罪に自ら対抗しようとすれば、罪に引き込まれてしまう。我々が自分の力で対抗できると思い込むからである。そのとき、我々は神の力を信頼することなく、神から離れてしまう。これが悪魔の策略である。我々は自分の力で対抗するのではない。みことばによって対抗する。それは、我々がみことばのうちに身を堅くする信仰による対抗である。荒野の誘惑において、主イエスがみことばのみによって悪魔に対抗したように、我々もまたみことばのうちに身を堅くするのだ。そうしてこそ、悪魔は我々のうちに住む原罪に力を注ぐことができなくなる。力に力で対抗するのではなく、悪の力が注ぎ込まれないために、わたしの力を使用しないという対抗をするのである。わたしの力では対抗どころか、むしろ原罪に力を注いでしまうと弁えている必要がある。我々が悪魔と原罪の力から解放されるために、イエスは洗礼を受けてくださったのだから。

解放されるためには、力を使用しないこと。力によって解放されることはない。力によって取り込まれてしまう。力がなくなること、死を通してこそ、我々は真実に神にすべてを委ねることができるのだ。我々が死ぬことによってこそ、神の力が発揮される。使徒パウロがキリストの言葉を聴いたとおり、「神の可能とする力は、弱さにおいて、終極に達する」のである。我々が我々の力を使用しないために、神は天を裂いて聖霊を降らせ給うた、イエスの上に。天が裂かれたということは、我々の罪によって閉じられていた天を神が裂いたということである。イエスにおいて、神が喜びを見出したからである。イエスにおける神の喜びは、神が天を裂くほどの喜び。我々が洗礼を受けることも、同じ神の喜び。イエスが受けた喜びを、我々もまた喜ばれ、生かされるために、神は天を裂いて降ってくださったのだ。

あなたは、神の喜びである。神があなたのうちで喜び、好ましく思っておられる。あなたが弱さの中にあるとき、あなたは神に喜ばれている。神の好ましさの中にある。神の喜び、好ましさは、あなたがありのままの罪を認める姿。あなたが、罪が働かないようにと祈る姿。あなたのうちに神の意志が貫徹されるように祈るとき、あなたは神の喜びである。あなたの力ではなく、神の力によって、あなたは喜びとして生じている。好ましさとして生じている。それがイエスにおける神の喜びがもたらす新しさ。

あなたをこの新しいいのちへと迎え入れるために、神はイエスを派遣してくださった。イエスと共に死に、イエスと共に起こされる生へと、あなたは迎え入れられた。あなたのうちなる神の喜びが、あなたを促して、神の意志を生きるように導いてくださる。あなたはあなたのものではない。神のもの。神の喜び。神のいのちを喜び生きて行こう、神に愛されている者として。

祈ります。

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