「宣言の現在」

2021年1月17日(顕現節第3主日)
マルコによる福音書1章14節~20節

「カイロスは満たされてしまっている。そして、神の国は近づいてしまっている」とイエスは宣言する。イエスの宣言は現在完了である。すでに完了してしまっているカイロスの満たしと神の国の接近。これが、イエスが宣言していることである。この宣言は現在であり、完了している。将来ではなく、現在であることがイエスの独自性である。なぜなら、それまでも多くの自称メシアがやってきたが、彼らは将来のことを述べて、それに備えることだけを求めていた。しかし、イエスは将来ではなく、現在すでに完了してしまっているカイロスの満たしを宣言している。現在すでに近づいてしまっている神の国を宣言している。どうして、イエスはこのような宣言を行うことができたのか。

神の国は将来やってくるものと思っていたイスラエルの民。救いは将来だと思っていた人々。彼らに向かって、現在完了してしまっている救いを宣言するのはどうしてなのか。それが現実であるならば、すでにイスラエルはローマの支配から解放されているはずではないのか。カイロスの満たしが現実であるならば、今が終末なのか。イエスは終末が今あるとは言ってはいない。神の国の接近が現在完了していると言っている。これは何を意味しているのだろうか。現在完了している神の国は、この地上に来ているのか。イエスはそうおっしゃっている。それゆえに、現在完了してしまっている神の国に入るように、方向転換せよ、悔い改めよと宣教した。

来てしまっていないならば宣教する必要はない。なぜなら、来てしまっていない神の国を宣教しても、神の国に入る準備だけが重要になるからである。準備ではなく、今入ることが重要なのであるとイエスは神の国の現在を宣言する。この宣言の現在をそのままに受け入れる者は、神の国に入っていることを生きるであろう。神の国に入る資格を云々する必要はない。むしろ、資格を問うことよりも、入るということ自体が求められている。これが宣言の現在である。

宣言に従うならば、今入るように生きるであろう。宣言に従わないならば、将来入るように生きるであろう。この違いは、現在と未来の違いである。未来であるならば、切迫してはいない。いつか入るであろう神の国のために、今準備しようということになる。しかし、現在であるならば、切迫している。入るか入らないかが目の前で問われている。イエスの宣言の現在において問われている。

我々は、今を生きているがゆえに、今の生活を捨てることができない。今の生活が守られるように願う。今の生活を捨てなくとも良いようにと願う。それでは、イエスに従うことも、神の国に入ることもできない。なぜなら、今を捨てなければ、神の国に入ることはできないからである。神の国に入ることは、現在の地上的、人間的国を捨てなければ不可能だからである。どうして、不可能なのか。神の国は神の国であり、地上的人間的な国ではないからである。神の国に入るためには、我々の生き方の変容が必要なのである。方向転換が必要なのである。

この世の国は、人間が作ることができる国である。神の国がこの世の国であれば、人間が作ることができるのであり、この世の生活の延長線上に作ることになる。それでは、この世の生活を捨てることはなく、この世の価値の中に留まっている国である。一方、神の国は神が作り、神が来らせる国である。人間が作ることができないのだから、神の国はこの世の生活の延長線上にはない。この世とは違う価値の中にある。神の国が地上的に来たとしても、価値が違うのだから、そこへ入るためには、地上的人間的な価値を捨てなければならない。これが決断であるが、決断はあくまで可能な人に可能なことである。誰もが入ることができるのが神の国なのではない。

では、神の国に入ることができるのはどのような人なのか。地上的人間的価値によって、排除され、居場所を奪われているような人々。このような人々は地上的人間的価値をすぐにでも捨てることができる。いや、むしろこの世の価値に捨てられているからこそ、入ることができる。一方で、この世の価値を捨てることができない人々はこの世の価値の恩恵に与り、縛られているがゆえに、入ることは不可能である。シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネがすぐにもすべてを手放して、イエスに従うことができたのは、彼らもこの世の価値から捨てられていた人々だったからなのだろうか。

彼らは、この世で漁師として生きていた。先祖代々漁師だった。彼らは、代々受け継いできた職業として漁師であった。彼らはこの世の価値の中で漁師であった。彼らは、この価値を捨てる決断をしたが、その決断はどこから生じたのだろうか。彼らがこの世の価値を捨てたいと思っていたからであろうか。父の職業を受け継いでいることに疑問を感じていたのであろうか。受け継いでいくことに価値を見出せなかったのか。自らの生活に価値を見出せなかったのだろうか。どうして、彼らはイエスにすぐについていったのだろうか。彼らは、「すぐ」行動した。その行動の源泉は、イエスの召し、呼ぶことであったが、イエスはどうして彼らを呼んだのか。

イエスは、彼らを見て、すぐに呼んだ。これも不思議である。通常、初めて見た人をすぐに呼んだりはしない。良く知ってから、この人ならばと呼ぶものである。ところが、イエスはすぐに呼んだ。そして、弟子たちはすぐに従った。そこには人間的な価値判断が介在してはいない。すぐにということは、価値判断する時間もなく行われることだからである。弟子たちは、何も判別せずにイエスに従った。現在接近してしまっている神の国はこれを求める。「すぐ」を求める。神の国は切迫している。これがイエスの宣教である。イエスの宣言の現在である。

イエスの宣言の現在は切迫した現在である。それゆえに、弟子たちはすぐに応答した。拒否するか、受け入れるかはすぐに行われなければならない。そうでなければ、神の国に入ることはできない。呼ばれたときに入る。それが神の国である。弟子たちは、すぐに従ったが、それは彼らが価値判断をしてからではなかった。価値判断しないままに従った。これが現在を生きるということである。そして、イエスの宣言の現在に従うことである。そこでは、何を捨てるべきかという判別は行われていない。彼らはすべてを捨てたのだ。すべてを捨てなければ、新しい価値の中に生きることはできないからである。

彼らは、呼ばれたからすぐに手放した。呼ぶことと捨てることが同時に生じた。ここには判別はない。むしろ、純粋な召命と応答があるだけである。イエスに従うということは純粋な応答なのである。信仰とは、価値判断があって生じるのではない。信仰は与えられるものだから、与えられたときに与えられたように受け入れるだけ。そのとき、与えられた信仰が我々を動かし、イエスに従う者とする。信仰も現在完了である。今与えられて、今信じる。それだけである。

このように考えてみると、神の国の切迫した接近もカイロスの満たしも、現在完了であることは必然である。イエスが見ただけで、弟子たちを呼んだのも必然である。弟子たちが従ったのも必然である。必然は現在完了である。将来必然であるだろうなどということはない。現在必然でなければ、将来も必然ではない。現在終わりを生きていなければ、将来も終わりを生きることはない。終わりに至って、ようやく生きるのではない。今、生きているがゆえに、終わりにも生きるのである。これが神の国の切迫である。神の国の現在である。宣言の現在である。

我々は今を問われている。将来が今の中で現れているがゆえに、今が重要なのである。弟子たちも、今を生きようとしていた。自らの今を問うていた。それゆえに、すぐに応えた。それゆえに、今問うているように生きる。それが神の国である。今、現在の価値を手放して、神の国を生きる。今、現在の生き方を手放して、神の国を生きる。イエスが我々に求めているのは宣言の現在を生きること。イエスと共に、生きること。それだけが我々の未来を生きることなのである。イエスが呼んでおられる。我々はすべてを手放して、イエスに従って行こう。

祈ります。

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