「権威を持つ者」

2020年1月24日(顕現節第4主日)
マルコによる福音書1章21節~28節

「彼は教えていた、権威を持っている者のように、そして、律法学者のようにではなく」と、人々がイエスの教えに驚いた理由が記されている。福音書記者マルコは、イエスの教えの力強さ、真実さを「権威を持っている者」と表現した。この表現が語っている「権威を持っている者」とはどのような者なのか。また、28節で語られている「権威に従った、新しい教え」とは、どのような教えなのか。

律法学者の教えとは違うとも言われているのだから、律法学者は「権威を持っている者」とは言われないのだろうか。律法学者がこの時代のユダヤにおいては権威を持っていたのではないのか。彼らは、律法を良く調べて、律法の意味について人々に教えていたはずである。しかし、彼らが調べていたのは、権威を持っていると思われていた過去の人々の見解であり、それを教えていた。「ラビ エリエゼルはこう言っている」というように、このラビはこう言っている。あのラビはそう言っている。と述べるだけで、自分自身が律法そのものの意味を把握して伝えるわけではなかった。権威を持っている人たちを紹介していたというだけである。ところが、イエスは過去のラビの見解とは関わりなく、ご自身の言葉で、ご自身の見解を述べておられた。それゆえに、イエスは、世々の権威あるラビのように教えていると人々は感じたのであろう。

さらに、イエスが汚れた霊に命じると、彼らはイエスに従った。それゆえに、「権威に従った、新しい教えだ」と人々は驚嘆したと、述べられている。ここでは「教え」が汚れた霊にも通じる教えであり、彼らが従うほど権威ある教えなのだと述べられている。従って、イエスの教えは神の言葉のように、出来事を起こす教えなのである。このような教えは、それまで誰も知らなかった。歴代の有名なラビたちが自分の見解を述べた在り方だけではなく、彼らさえもできなかったような、悪霊さえも聞き従うほどの教え。それがイエスの教えだというわけである。

このような権威に従った新しい教えがやってきたと受け取ったにも関わらず、ほとんどの人はイエスに従うことはなかった。ただ、権威を持っている者として、イエスに権威を使ってもらい、悪霊を追い出して欲しいと願った。病を癒して欲しいと願った。つまり、「新しい教え」とは言え、自分たちに都合の良いことだけを受けようという姿勢であり、教えを全面的に受けようとする姿勢ではない。イエスは、それでも良いと、多くの人を癒しておられる。ある意味では、癒された人たちはイエスの権威に従っているのだから、その人々は教えを受け入れている。従って、癒しは教えを受け入れた結果生じているのである。ただし、病んでいる人たちの周りにいて、イエスの言葉を聞いている人たちは教えを受け入れているのかどうか分からない。それでも、少しでも受け入れる人がいることによって、イエスは宣教し続ける。それは、イエスご自身が「権威」を付与されている使命があるからである。

「権威を持っている」ということは、その人に「権威」を付託したお方の権威である。それゆえに、イエスが用いている「権威」は、神から付託された「権威」であり、イエスが用いるように神が与え給うた「権威」なのである。この権威を持っているということは、イエスが神によって承認された「神の息子」「愛すべき者」だからである。イエスの洗礼の際に、天を裂いてくださった神が、イエスを承認し、派遣した。人間たちの罪によって閉ざされていた世界を神が裂くために。その権威をイエスは持っている。それゆえに、人間たちが閉じている世界を一つひとつ裂いて、開いていく。それがイエスの使命である。

ユダヤ教の会堂、シナゴーグに入るとすぐに汚れた霊に支配されている者がやってきて、イエスに文句を言う。しかし、イエスが「黙れ、彼から出ていけ」と言うと、大声を上げて出て行った。安息日にこのような癒しを、しかも会堂で行った。おそらく、指導者たち、律法学者たちは面白くなかったであろう。それでも人々は「権威に従った、新しい教えだ」と評価した。「新しい」と評価するのだから、これまで誰も行わなかったということである。もちろん、安息日に会堂で癒しを行うなど誰も行わなかったであろう。行って欲しくとも、誰もが無理だと思い、閉じていたものが裂かれた、イエスの癒しによって。これがイエスの新しさである。それは誰もが行うことを恐れていた「新しさ」である。それゆえに、誰もが驚くが、これを評価するのも束の間。いずれ、当局の検閲が始まれば、人々はイエスを捨てるのである。

それにも関わらず、イエスは必要な人に、必要な時に、癒しを行う。しかも、権威を持つ者として行う。イエスの言葉と行為とは一つである。イエスの言葉が行為に現れ、行為そのものが言葉として働く。悪霊、汚れた霊がイエスの言葉に従う。これが「権威に従った新しい教え」である。言葉と行為が一つであるということが、「権威を持つ者」なのである。権威を持つということは、その言葉が出来事を起こすということだからである。

出来事を起こす言葉。天地創造の際に神が語られた言葉が出来事を起こす言葉である。この言葉をイエスは付託され、出来事を起こす言葉を語り給うた。洗礼の際に、聞こえてきた声が言うとおり、イエスは「あなたはわたしの息子、愛すべき者。あなたのうちで、わたしは好ましいと思う」存在なのである。イエスが神の息子であり、好ましいと思われている存在であるがゆえに、イエスに付託された権威は、イエスをして神の好ましさを起こす言葉となる。神の創造の力が、イエスの言葉に宿っている。それゆえに、悪霊たちは従わざるを得ない。その力によって、イエスは一人ひとりの閉ざされた世界を裂いて、新しい世界を開いていく。閉ざされている存在が開かれた存在とされる。これがイエスの癒しであり、言葉と行為とが一つとなった「新しい教え」なのである。

「新しい教え」は「権威を持つ者」が語る言葉によって伝えられていく。イエスはご自身が神の息子であることを生きて、神の意志を伝える。神の権威によって、言葉と行為を与える。イエスの言葉が悪霊たちも従わせるのは、神の権威がその言葉に備わっているからである。イエスは神の権威に従って、行動する。神の権威に従って、語る。神の権威に従って、癒す。癒される者たちは、神の権威によって癒される。彼らは、神の権威を持つ者の言葉によって、教えられ、導かれ、開かれていく。社会によって閉ざされていた自分のいのちが溢れ出すように開かれていく。罪の障壁が裂かれ、神が与え給うたいのちの真実が溢れ出す。イエスの癒しは、このような解放の出来事である。イエスの教えは、人々を解き放つ言葉である。誰もが願いながらも、誰もが諦めていた世界が開かれる。神の権威によって、開かれる。イエスの言葉によって開かれる。

この新しい世界は新しい教えとして、我々のところに届けられた。権威を持つお方の言葉として届けられた。この言葉を真実に受け入れる者は、癒される。閉じ込められていた世界から放たれる。新しいいのちを与えられ、羽ばたく者とされる。イエスの言葉、イエスの行為、イエスの生涯。イエスのすべてが権威を持っている。イエスが語る通りに、世界は開かれ、新しい創造が行われる。

神は、イエスを「権威を持つ者」として派遣した。神の愛する息子として派遣した。派遣における神の権威が愛する息子を通して働く。罪に閉じ込められた世界に働く。罪の障壁を引き裂き、何ものにも閉ざされることなき、自由の世界を開く。イエスはそのために、この世へと派遣された。神が認証した独り息子として派遣された。このお方の肩に権威がある。このお方の言葉に権威がある。このお方の行為に権威がある。我々を愛し給う神が派遣したイエスにこそ、すべての希望がある。

イエスの言葉を真実に受け入れる者は幸いである。イエスの権威があなたを神の子として生かしてくださる。権威を持つイエスの言葉を聴き続ける者は、罪から解放される。閉じ込められていた世界を引き裂いてくださるお方の権威に従って、自由を生きていこう。

祈ります。

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