「出て行く者」

2021年1月31日(顕現節第5主日)
マルコによる福音書1章29節~39節

「このことへとわたしは出て来たから」とイエスは言う。「すべての人が、探しています、あなたを」とペトロたちがイエスに言った言葉に対して、他の城壁のない村、城壁を持つ町などへと行き、宣教するとおっしゃって、こう言う。29節でも「会堂を出て来て」シモンの家へとやって来たと記されている。イエスは「出ていく者」である。一つところに留まることはない。さまざまなところへと出ていく。イエスが留まっているのは、父なる神の愛のうち。父の家である創造された世界に留まっている。その世界の如何なるところも父の家。イエスが出ていくのは、父なる神の家の中で苦しんでいる者たちのところ。そこにおいて、イエスは宣教する。これがイエスの使命である。

我々人間は、自分が住むべき家を確保し、城壁のある町の中で、外敵から守られて、安心する。このような世界の中で、排除される者が生まれ、人々が安心するために追い出される者が出てくる。イエスは、追い出され、排除された者たちのところへと、「出て行く者」である。イエスが出ていくところは、この世の片隅。この世の周縁。この世の闇。そこに座すしかない者たちのところへと、イエスは出ていく。

当時の町は城壁があり、城壁の中は安全であった。しかし、城壁の中を排除の思想が席巻し、追い出される者、排除される者がいた。このような世界が人間の世界。人間の罪の世界。排除された者たちは、どの町にも迎えられず、彷徨うしかない。野宿生活を余儀なくされる存在となる。このような存在を作り出して、自分たちは安全だと考える。自らが排除されることはないと思い込む。しかし、一端病にかかれば、町から追い出される。このような人間の世界、罪の世界は、イエスの当時から今に至るまで、何も変わってはいない。人間の罪が取り除かれてはいないからである。

イエスは、人間の罪を働かなくするために、この世に来られた。その働きは、最終的に十字架において完成する。そこに至るまでの地上でのイエスは、この世から追い出された者たちを求めて、歩き回る。常に、「出て行く者」として生きたイエス。このお方が出ていくところ、そこにはこの世の片隅がある。この世の闇がある。この世の周縁がある。この世の周縁へと「出ていく者」イエスは、出ていったところで、苦しんでいる者たちの苦しみを引き受けるお方であった。

会堂から出て行ったイエスが入ったシモンの家には、熱に支配された義理の母が寝込んでいた。イエスは、この母の手を取る。すると、「熱は彼女を手放した」と記されている。まるで、イエスが彼女を熱から取り戻したかのようである。熱とイエスとが、シモンの姑を引っ張り合い、イエスが取り戻す。イエスは、人間の苦しみのすべてを引き受けてくださる。苦しむ者の手を取り、苦しみを引き受け、十字架の上にまで持っていくお方である。もちろん、病そのものの苦しみがあるが、それ以上に病に支配されることによる社会的苦しみがあった。病が恐れられた時代にあっては、病に支配された存在から病が移ることが恐れられた。それゆえに、町の外に出て行かざるを得ない。病に苦しむだけではなく、守りのない世界に出ていかなければならない。このような世界にイエスは、「出ていく者」としてこの世に派遣された。父なる神によって派遣された。「あなたは愛すべきわたしの息子」とおっしゃった神が、イエスをこの世の周縁へと派遣した。そこで、苦しむ者たちの苦しみを引き受けさせるために。

イエスが苦しみを引き受けることによって、一人ひとりが「愛すべき者」という神の言葉を聴いた。捨てられた存在ではなく、排除される存在でもなく、愛され、受け入れられている存在であると知った。彼らを捨てた世界があったとしても、神が愛してくださる存在であることを知った。彼らは、病から解放されるだけではなく、自らが愛されたように、愛する存在とされた。シモンの義理の母が、熱が彼女を手放した後、イエス一行に奉仕したのは、この愛を受けたからである。愛する愛を受け取ったからである。

愛された者が愛する者とされる。愛されない悲哀を通ってこそ、愛の暖かさを知る。周縁に追い出されてこそ、受け入れられる愛を生きる者とされる。イエスがわざわざ出ていく者として生きたのは、周縁にこそ神の愛を受け入れる存在が生きていたからである。そこにおいてこそ、宣教するために、イエスは「出て行く者」であった。イエスを町に留めようとする存在は、自分たちが排除して、周縁に追い出した張本人であることを知らない。周縁で苦しむ者たちの苦しみを知らない。自分もそこに追い出されてみなければ分からない。この罪の深みに、イエスは出ていく。イエスが出ていくことによって、周縁は周縁ではなくなる。神の世界の中心となる。周縁こそが、神の愛の中心点。神の愛が満たされる中心。イエスが「出て行く者」であるがゆえに、周縁が中心となり、中心が周縁となる逆転が起こる。これが「出て行く者」イエスによって起こる方向転換。メタノイア。悔い改めである。

悔い改めるべき世界は、イエスが出ていくところではない。イエスが出て来たところが悔い改めるべき世界である。イエスの「出ていく者」としての生き方が、この世界に悔い改めを迫る。それゆえに、イエスは忌み嫌われる。最終的に、十字架に架けられるほどに憎まれる。イエスへの憎しみは、自らを責められているとの思い。自らの罪を感じながらも、責められたくない者。自分たちは正しいことを行っていると誤魔化している存在。切り捨てられた存在の苦しみを知ろうとはしない世界。おかしいのだとうすうす感じている。しかし、勇気が無い。周縁に追い出されることを恐れて、何も言えない。そのような存在も罪に加担している。いや、罪深いがゆえに、自分を守るために何も言わない。結局、人間は誰であろうとも、自分が守られればそれで良い。イエスだけが、この世界から出て行く。それでは良くないのだと出ていく。

こうして、世界は逆転する。悔い改めという生き方の方向転換に至るために、イエスは出ていく。世界を覆すために出ていく。世界が罪を受け入れるために出ていく。世界の周縁を神の愛の中心とするために、出ていく。言い訳にまみれて、何も変えようとはしない世界を糾弾するイエスの宣教。これが十字架に至る言葉。十字架の言葉。イエスは、周縁である世界の中心で愛を叫ぶ。神の愛を叫ぶ。

イエスの許に、病人たちを連れてきた人々。彼らは病人たちと共に生きようとしていた。町から外されて、村に追い出された。病人たちだけでは生きていけないと共に居を移した。彼らもまた、出ていく者であった。自ら周縁に出ていった。こうして、城壁のない村が生まれ、城壁のない世界が生まれる。出ていく者たちによって、城壁は取り壊される。彼らもまた、自らの罪を知っている。町に残っていれば、守られるはずなのに、町を捨てる。城壁から出ていく。彼らは、病む者たちと共に生きる。肉親が病に支配されれば、そうせざるを得ない。その家全体が追い出される。このような世界が我々の世界。我々人間の罪の世界。この世界が変わるとすれば、周縁が中心になることだけでは無理なのだ。中心となった周縁から、また排除される者が生まれるであろう。我々の罪が働かなくされなければ、逆転した世界がまた逆転する。この逆転の繰り返しが、人間の歴史である。

根底的な生き方の転換が必要なのだ。我々の罪が働かなくされる転換が必要なのだ。この世界が父の家であるようにと、出ていくお方イエス。このお方が、人間そのものの罪を働かなくしてくださらなければ、何も変わらない。我々は、イエスの言葉を聴き続けなければならない。マルティン・ルターが九十五箇条の提題の始めで語った通り、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ・・・』と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」。イエスの言葉に従い、出ていく者として生きて行こう。父なる神の家の中で、父の愛を宣教するために。

祈ります。

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