「出ていく信仰」

2021年2月7日(顕現節第6主日)
マルコによる福音書2章1節~12節

「そして、彼は起こされた。そして、すぐに、床を取って、彼は出ていった、すべての者の前から」と言われている。「起こされた」という言葉は復活を意味する。そして、「出ていった」という言葉は、イエスが「出ていく者」であることと同じである。イエスは、自らを支配しようとする者たちの前から出ていくお方であった。この身体の麻痺した人も同じく「すべての者たちの前から」出ていく。それは、彼が新たに生き始めたからである。復活の生は、イエスに従って「出ていく生」であり、「出ていく信仰」のうちに生きることである。

この「出ていく信仰」は、もともとこの人とこの人を連れてきた人たちに与えられていた。それゆえに、彼らは迷惑も顧みず、屋根をはがして、この人を吊り降ろした、イエスの前に。「出ていく信仰」は既成概念を打ち壊し、支配されていたところから出ていく力を与える。このような信仰はいったいどこからやって来たのか。イエスに出会ったから与えられたのか。もちろん、彼らはイエスに会うためにここにやってきた。床に寝たままになっている友を連れてやって来た。その友がイエスの前に出るために屋根をはがす行為に出たのは、イエスのところへ連れて行きたいという強い意志があったからである。この意志も信仰によって起こされた意志であろう。他者のために、自分たちを規制する壁を取り壊す。ひたすらイエスに向かって壁を越えていく。それが「出ていく信仰」である。

イエスが放浪する生を根底的に生きていたように、イエスを求める存在も放浪する。一つところに留まることなく、自らの安定を越えて出ていく。身体の麻痺したこの人に、イエスは言う。「あなたの床を取って、起き上がれ。そして、立ち去れ、あなたの家へ」と。「立ち去れ」とイエスは言う。彼は「あなたの家へ」と言われたのに、最後には「彼は出ていった」としか記されていない。家に向かったのか、あるいはただ「出ていった」のかは分からない。家へと向かって出ていくのか、他のところへ出ていくのかは、問題ではない。彼が「出ていく」ということ、しかも「すべての者たちの前から」出ていくこと。それが重要なことなのである。それは、単独者として立つことだからである。

イエスによって起こされた「出ていく信仰」は、イエスに出会ったからという目に見える形での出会いではなく、イエスへと向かう姿勢としての信仰である。出会う前から、出会っている信仰。それが彼らを動かし、イエスに出会った後は、その人のうちで真実に生きる信仰として働く。まだ見ぬイエスによって起こされ、出会ったイエスの言葉によって堅くされた信仰。それがこの人が生きている「出ていく信仰」である。それは、如何なるものにも捕らわれることなく、自由を生きる信仰である。

信仰を起こされることは、自由を与えられること。自由を生きる力こそ信仰の力である。単独者として生きる力を信仰と呼ぶ。なぜなら、信仰は神とわたしとの問題だからである。他の人と同じように信じるのではない。まず、わたしが信じるようにされることであり、その信仰の同一性を確認するのは後のことである。使徒パウロもガラテヤの信徒への手紙1章15節以降でこのように語っている。彼を召した神が「御子をわたしのうちに啓示した」そのとき、「アラビアへと立ち去った」のだと。それから三年後にようやく、パウロはペトロたちに会いに行った。パウロも信仰を起こされたとき、立ち去り、単独者として生きた。単独者として生きることが信仰の要諦である。それはこれまで自らを縛っていたものから解放されるために必要な単独性なのだ。

この身体の麻痺した人は、自分を連れてきてくれた友さえも置き去りにして、独りで出ていった。何と失礼なやつなのかと思う人もいるであろう。しかし、友たちもそれで良いのだと受け入れている、神を讃美して。それが信仰によって可能となる新しい関係なのである。独りであることを生きる者同士が、互いを受け入れあって生きるのが信仰である。友たちの支えがなければ、ここまで来ることもできなかったこの人が、独りで立つ者とされた。その有様を見て、喜びこそすれ、彼を罵る友はいない。彼らも信仰のうちに、彼をイエスの許へ連れてきたのだから。それで良いのだ、と自分たちの労苦を神に献げている。それが真実に友である。いや、信仰における隣人性である。隣人として生きるためには、単独者である必要がある。誰の思いにも振り回されることなく、ただ自分のうちに起こされた信仰に従って生きる。霊から生まれた者が、霊に導かれて生きる。それが信仰者として生きることである。

その根底的変革は、罪の赦しを受け取ることから始まる。イエスは言う。「人の子が権威を持っていることをあなたがたが知ってしまうために」と。その権威は「地の上で罪を赦す権威」だと言われている。この権威を「あなたがたが知ってしまうために」行われる癒し。それは、罪赦されていることが現れること。従って、この人が起こされたことは、罪の赦しの現れ。罪赦された者は、罪の支配から解放された者。それが単独者として立つように現れる。これがイエスがこの人に与えた赦しであり、解放であり、自由である。

我々の罪は、我々が独り立つことができないようにしてしまう。アダムとエヴァの陥った罪は、責任転嫁を呼び起こし、誰かに責任を押しつけて、自分は罪を逃れようとする。この生き方は、結局縛られた生を生み出してしまう。自らの責任において、自由を生きるのではなく、誰かの所為にして、自分は自由を生きようとする。さらに、非難されることから隠れようとする。こうして、我々は罪に縛られ、他者の所為にして、不自由に生きることになる。隠れる生は、不自由である。隠れなく生きるとき、我々は自由である。

この身体の麻痺した人も、隠れなく生きるようにされた。誰にも縛られることなく、自分自身を生きるようにされた。誰にも責任を負わせることなく、自分の責任において生きるようにされた。彼もまた、自らの病に苦しみ、悩み、誰かの所為にしていたであろう。誰にも責任はない。ただ、原罪だけが、彼を縛り付けていたのだ。そこから抜け出すことができず、呻吟していたこの麻痺した人。彼のもとに、イエス来訪の知らせが届いた。友たちが、彼を連れて行く。屋根をはがしてまで、彼をイエスの前に立たせる友たち。彼らがいて、この人はイエスの前に立つことができた。彼らの信仰があって、屋根をはがすことができた。既成概念を越える彼らの信仰は、原罪を働かなくする。神お一人しか罪を赦すことはできないと、彼を押し留める原罪は働かなくされた。イエスの言葉によって、彼は原罪を越えて、起こされた。新しい生へと起こされた。

「このようなことは今まで見たことがない」と言われるのは当たり前である。皆が原罪に閉じ込められているのだから。原罪を越える信仰は、今まで見たことがないようなことを行う力である。神の力は、罪を赦し、罪の赦しが現れるように働く。この力を受け取るのが信仰である。我々は、原罪をどうにもしようがない。自らの力では越えることができない。しかし、神の力は越えさせる力。神の力は覆す力。根底的にすべてを変容させる力。我々キリスト者は、キリストの力に与っている。神の力をいただいている。神は我々を解放してくださる。如何なることが起ころうとも、神の力は我々を新たに生かしてくださる。この信仰の下に、我々が生きるために、イエスはみことばをもって語り続けてくださる。「自分の床を取って、起き上がれ。そして、立ち去れ」と。この言葉は、「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」という言葉に基づいている。

我々は自分を縛っている自分自身を捨てなければならない。結局、自分を縛っている原罪は、わたしのうちに住んでいる罪なのだから。自分を捨てることが、罪赦された者の生き方。自分で自分を縛っているところから解放されるために、自分を捨て、イエスに従って進んで行こう。「なすべきことはただ一つ」。あなたがたは単独者として解放された。イエスによって解放された。この自由を喜び生きて行こう。「出ていく信仰」のうちに。

祈ります。

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