「イエスのすべて」

2021年2月14日(主の変容主日)
マルコによる福音書9章2節~9節

「誰にも、見たことをあなたがたは物語るな、人の子が死者たちから復活する時の外は。」とイエスは弟子たちに言う。それは、人の子の復活を前提としている言葉。つまり、復活が生じなければ、弟子たちは誰にも物語ることができないという命令である。従って、人の子の復活は必ず生じるということである。そのとき、弟子たちは物語る、イエスの山上の変容を。そのとき、彼らは必ず物語ることになるとイエスはおっしゃっているのである。しかし、この出来事を物語るのは先のことである。そして、復活を経ていない今、十字架さえも経ていない今は、物語ることはない。しかし、イエスがこのように禁じておられるのはどうしてなのか。

今物語るということは、未だ自分のうちで熟慮されていないままに物語ることだからである。これをイエスは禁じておられる。人が物語るということは、自らのこととして物語るのであり、物語られる事柄を自分のうちに定着させていなければ、物語にはならないからである。さらに、物語は始まりから終わりまでを物語るべきである。従って、弟子たちが物語る事柄は、始まりから終わりまでのイエスのすべてだということである。イエスのすべてが完了していない今、物語ったとしても、それは完結した物語にはならない。途中までの物語は、「以下、次号」や「次に続く」で、途中で区切ることになる。それでは、弟子たちから物語を聞いたとしても、何の話なのか分かりようがない。物語るならば、イエスのすべてを物語るべきである。それゆえに、イエスは弟子たちに禁じた、今物語ることを。そして、雲からの声は言う。「あなたがたは聞け、彼に属することを」と。つまり、彼「イエスのすべて」を聞けと言うのである。

イエスのすべて。それは、イエスの公生涯のすべて。宣教の初めから終わりまで。マルコ福音書が最初に語っている通り、「神の子、イエス・キリストの福音」のすべて。イエスというお方の存在すべてがイエス・キリストの福音なのである。イエスの言葉だけではなく、イエスの行動。一人ひとりに罪の赦しを受け取らせる言葉と行為。その結果、指導者たちと民の反対を受け、十字架に架けられたこと、そして起こされたこと、すなわち復活。これらすべてがイエス・キリストの福音である。このイエスという存在の初めから終わりまでの物語すべてが完了するまで、弟子たちは物語ることができない。物語ってはならない。すべてを通った後に、物語は力を付与される。人々を悔い改めへと導く力を付与される。一人ひとりの生き方の方向転換を生じさせる。これがイエスのすべて。

弟子たちは、そのときまでイエスに属することすべてを聞いていなければならない。聞くことによって、語ることが可能とされる。弟子たちが物語るイエスの出来事、イエスの生涯、イエスの存在、イエスの言葉。彼らを通して、物語られるイエスのすべてが、人々に力を与える。そのために、まず聞き続けること。それが今、弟子たちがなすべきこと。彼らが必然的に物語る者とされるために、なすべきこと。「彼に属することを、あなたがたは聞け」。雲からの声は弟子たちに指示する。

我々人間は、見たことを忘れないうちに伝えなければと思うもの。書き留めておかなければとも思う。しかし、ここにいる弟子たちは三人。複数の記憶がある。声が言うように「あなたがた」である彼ら三人が聞く。さらに、これ以外の出来事は、十二人が聞いている。弟子たちは聞き続ける。一人が忘れていても、もう一人が覚えている。二人が忘れていても、もう一人が覚えている。さらに、他の弟子たちも覚えている。複数の記憶が思い起こすであろう。それぞれに見ていること、聞いていることは違う。同じ場所にいても、同じイエスの語りを聞いても、覚えていることはそれぞれに違い、印象も違う。複合的な記憶が残される。イエスのすべてが記憶される。これがイエスと雲からの声が弟子たちに語っていることである。

複数の存在が、独りのお方イエスのことを聞く。複数の存在として、イエスのすべてを聞く。それによって、イエスはさまざまな視点から記憶され、伝えられる。これがイエスが望んでおられること。雲からの声が指示していること。弟子たちが集団として聞く。集団として見る。集団として語る。イエスを証する弟子たちは、このようにして福音の集団として形成されていく。

形成された福音の集団は使命を与えられる。与えられた使命が彼らを導く。彼らは福音を宣べ伝えることによって、自分自身を形作る。キリストの形に形作る。この形成も福音による。イエスのすべてが詰まった福音による。イエスのすべてが彼らを福音化して、さらに多くの兄弟姉妹を福音化する。こうして、すべての者たちが福音の中に生きるようになるまで、宣教は継続されていく。そのために、福音の物語が紡ぎ出される。一人ひとりの宣教において、福音は深められていく。それぞれの宣教者のうちで神が働き、神のみことばによる福音が広がっていく。我々現代に生きる者たちは、この福音の物語によって救われた者たち。福音の物語が、わたしの物語になっていくようにと召された者たち。イエスのすべてがわたしのすべてになっていくようにと召された者たち。この召しに与っている我々は、自分自身のすべてにおいて、イエスのすべてを経験する。祈り、讃美、奉仕を通して経験する。イエスは、このわたしのすべてにおいて働いてくださる。あなたの日々の歩みにおいて、イエスは働いてくださる。あなたの日々は福音の日々に変えられていく。如何なることが起ころうとも、あなたの日々は福音によって新たな地点に立つ。イエスのように捨てられたとしても、新たな力を与えられる。イエスのように苦しんだとしても、新たな力によって立つことができる。イエスは、あなたがこれから経験するすべてをすでに経験しているお方。このお方があなたのうちに形作られる日々が、あなたの前に広がっている。この日々の中で、イエスのすべてを味わいながら、進んで行こう。

あなたのすべても終わりの日に至るまで続いていく日々。従って、途中で終わることはない。途中で迷うこともない。途中で行き倒れることもない。すべてが完成するその日に向かって進む。目指すべき終わりの日に向かって進む。「なすべきことはただ一つ」だけ。向かうところはただ一つだけ。神の懐に憩うまで、我々は進み続ける。

一つことが終わったとしても、それで完成するわけではない。従って、終わったことは終わったこと。後ろのものを忘れて、ひたすら前に向かって進もう。終わったことを記念碑として留める必要は無い。何も留める必要は無い。そこに留まる必要も無い。一里塚はあるが、それが目指すべきところではないのだ。あなたの人生のすべてが完了するそのときまで、あなたは前に向かって、積み上げることなく、捨てていく。捨てるべきは自分のために積み上げたもの。何も持たず、誰にも頼らず、ただ独り、単独者として前進する、神に頼って。

これが弟子たちが指示された生き方。弟子たちが従った生き方。弟子たちがイエスのすべてを聞く旅。我々の旅も同じ旅。イエスのすべてを聞きながら旅を続けよう。この世のすべては途上に過ぎない。この世の価値は移りゆくもの。この世のすべては儚きもの。この世の支配から解き放たれた我々キリスト者は、自由を生きて行く。終わりの日に向かって生きて行く。先立ち給うキリストに従い、自分を捨て、自分の十字架を取って、前進しよう。我々の日々が、イエスのすべての福音に包まれるその日まで。我々のいのちがイエスのすべてと一つになるその日まで。あなたの前に立ち、あなたの道を導き給うお方は、すでに完成したお方。このお方を見定めて、このお方の言葉を聞き、このお方の生き方に従って行こう。我々は善きお方の懐に安らう。苦難を越えて、平安の地に行き着く。イエスと共に神との平和を生きる。あなたは神のもの、イエスの羊、キリストの理性を与えられた者。イエスのすべての中で、神を信じ、あなたのすべてを委ねて、生きて行こう。神は喜び迎えてくださる。

祈ります。

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