「肯定に支えられ」

2021年2月21日(四旬節第1主日)
マルコによる福音書1章12節~13節

「そして、すぐに、霊が彼を追い出している、荒野へ」と言われている。「追い出している」という現在が語られて後、「彼は存在した、荒野の中で」と過去が語られる。天使たちが奉仕したのも過去である。これはどういうことであろうか。現在は過去を含み持つのだが、イエスの現在は「霊が追い出している」現在である。過去においても現在においてもイエスは霊に追い出されて生きている。その追い出しの主語が「霊」であるということは、神がイエスを「追い出している」ということである。イエスは神に従って、追い出され、追い出されたところで生きてきた。そして、現在も追い出されて生きている。イエスには枕するところもない生が存在するのみ。それが「神の息子」「愛すべき者」の在り方だと洗礼の際の天からの声は語っている。つまり、神の肯定の中で、如何なるところにおいても、如何なることにおいても、イエスは生きて行くことができる。追い出されて、出ていく者として生きて行く。この世界は、父なる神の世界。父の愛すべき息子は父のうちに生きて行く。父の肯定に支えられて生きて行く。荒野の誘惑と言われる神の子の試験に際しても、イエスはすべての存在と共にいるのだ。それが「獣たち」であろうとも、イエスは共にいる。そして、天使たちはイエスに奉仕した。

天使たちの奉仕は、神の肯定である。奉仕するという言葉ディアコネオーは、食卓の世話をする給仕係の仕事を意味する。つまり、天使たちはイエスに食卓の給仕をした。その食卓は神の言葉の食卓。イエスは40日間の荒野での生活において、天使たちが給仕する神の言葉の食卓に与っていた。それがイエスを守り、イエスを生かし、イエスを導いた。神の言葉がイエスを肯定する言葉として支えた。荒野の試験は、イエスが神の息子としていかなることにおいても、神の言葉をいただき、神の言葉のみに従って生きる試験である。神は、天使たちを遣わし、イエスを支えた。神の肯定に支えられて、イエスは荒野の試験を生きた。そして、現在も「追い出されている」者として生きている。

追い出されても肯定に支えられているイエス。我々は肯定を自分で獲得するのではない。支えてもらうもの。肯定されていることを受け取っているならば、如何なることが起ころうとも揺さぶられることはない。受けるべきことを受け、なすべきことをなす。それが可能とされるのは、肯定を受け取っているか否かにかかっている。

我々人間が罪を犯したのは、自ら肯定を獲得しようとしたからである。自らの肯定を自らの力に頼ったからである。それにも関わらず、不安になり、隠れることになった。アダムとエヴァの堕罪は、神を信頼できず、神のようになろうとして、自己肯定に走ったがゆえである。しかし、自己肯定は力にはならなかった。自らが犯したことの罪を知るがゆえに、自己肯定は機能しなかった。それゆえに、神は人間の哀れさを思い、エデンの園から追い出したのだ。追い出された我々人間は、エデンの園を求めて彷徨った。自らがいるべき場所から追い出されることで、不安の中を生きざるを得なかった。この不安の世界に神は独り子を送る。イエスは同じように追い出される生を生きている。しかし、神の肯定に支えられて荒野においても、獣たちと共にいることが可能とされている。これが肯定に支えられた者の平和なのである。では、この平和は、この肯定は如何にして我々のものとなるのであろうか。

イエスは追い出されることを引き受けている。イエスは根本的に、根源的に、肯定されていると信じているのである。神の肯定は、我々のいのちのうちに宿っている。我々が神によって生み出されたということが肯定そのものなのである。ということは、我々もまたこの神の肯定によって支えられている。それを知らしめるために、イエスは我々に先だって肯定を生きてくださっている。イエスを見ることによって、イエスを知ることによって、我々はイエスのように生きることができる自分自身を知るのだ。どのようなときにも、如何なる場所であろうとも、神は我々人間を生み出してくださったお方として、我々を支えてくださっている。これを信じることが、自己肯定を越える道である。つまり、信仰によって、我々は神の子として生きて行くことが可能とされるのである。

我々人間は、裸で生まれ、裸で召される。何も持たず生まれ、何も持たず召される。あらゆるものがない状態で生まれ、あらゆるものを捨てて召される。このような無一物の存在を神は生み出してくださった。それゆえに、裸であっても裸ではない。何も持っていなくともすべてを持っている。何もなくともすべてがある。使徒パウロがコリントの信徒への手紙第二6章で言うように、我々は「欺く者たちのようで真実な者たち。知られていない者たちのようで知られている者たち。死んでいる者たちのようで、見よ、我々は生きている。罰せられている者たちのようで死に定められている者たちではない。悲しんでいる者たちのようで、しかしいつも喜んでいる者たち。貧しい者たちのようで、しかし多くのものたちに富んでいる者たち。何も持っていない者たちのようですべてのものをしっかりと持っている者たち」。このような生がキリスト者の生である。この世にあっては、持たない者であろうとも、神の子としてはすべてのものをしっかりと持っているとパウロは言うのだ。この生は、イエス・キリストによって開かれた新しいいのちである。それゆえに、パウロは如何なるときにも忍耐をもって生きた。すでに持っている者として生きた。

我々人間は、すべてを神のものとして持っている。すべてのものは我々が使用すべきものとして神によって備えられている。我々は獲得するのではなく、いただくだけである。自分自身のすべてを神からいただく者がキリスト者。所有ではなく、使用する者として生きる。所有を求めることが自己肯定に潜む罪である。使用に生きるとき、我々は神の肯定に支えられて生きることができる。神はあらゆるときに、あらゆるものを我々に与え給い、これを用いなさいと言ってくださる。出エジプトの民が、荒野においてマナを食べたように、必要なだけ使用することができる。それを所有しようとすると腐ってしまう。これが、我々が生きるべき神のいのちである。

使用する生は所有する生を越える。神の肯定に支えられているからである。追い出される生も同じく神の肯定があるがゆえに、追い出されることを引き受ける。こうして、我々は追い出されたところで、神と共に生きることができる。追い出されることは、所有を捨てることである。「すぐに」追い出されるのだから、所有を確保して持っていくことができないからである。一つところに留まることなく、所有を捨てて、使用に生きるならば、我々は自由である。所有する生は不自由である。捨てたとしても、何も不自由ではない。必要なものは神が与えてくださる。この信仰のうちに生きているのが、イエス・キリストである。このお方ご自身が、我々の福音。我々を神のものとしてくださる福音。

あなたは神によって造られた者。あなたは神が備え給うた世界に生み出された者。あなたは神の顧みを受けている者。神は、あなたを離れることなく、如何なるときにも神の愛があなたを包んでいる。パウロもこう言っている。「なぜなら、わたしは確信してしまっているから、死も、命も、天使たちも、支配者たちも、現在あるものも、来ようとしているものも、神の可能とする力たちも、高いものも、深いものも、何か異なる被造物も、わたしたちを引き離すことはできないであろう、わたしたちの主、キリスト・イエスにおける神の愛から」と。神の愛がすべてにおいてすべてを満たしている。この愛の世界が我々を包んでいる。イエス・キリストは、この世界を我々に与えるために、追い出されることを引き受け、荒野の試験を受けてくださった。

キリストは神の愛を忘れることがないようにと、ご自身の体と血をもって、我々を養ってくださる。感謝していただき、キリストに従って進み行こう、荒野の中を。天使たちがあなたに給仕してくれる神の言葉をいただきながら。

祈ります。

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