「存在の未来」

2021年2月28日(四旬節第2主日)
マルコによる福音書10章32節-45節

「あなたがたのうちで、大きなものとして生じることを意志する者は、あなたがたの奉仕者として存在するであろう」とイエスは言う。現在の意志と未来の存在は一致していないようである。それはまた、ゼベダイの子らの意志とは関わりなく、「備えられてしまっている者たち」に可能とされている事柄とも通じている。つまり、現在の人間の意志が未来を開くのではないということである。現在の意志に関わらず、神の意志が未来を決定している。現在の我々の意志は、現在のみを見ている。しかし、神の意志は我々の存在の未来を見ている。目の前のことにこだわっている我々人間を新たに創造したいという意志が神の意志だからである。

我々人間が原罪に陥ったのは、目の前のことに捕らわれたからである。目の前の「食べたい」意志に捕らわれて、神の意志が実現してくださる存在の未来を望み見ることができなかったからである。そうであれば、イエスに近い将来来らんとしている出来事は神の意志であり、神の決定である。この決定を覆すことはできない。覆してはならない。さらに、弟子たちが将来如何なる存在になるかは、神が備えておられることだとイエスは言う。イエスは神の意志に全面的に委ねている。それは、ご自分の意志に惑わされることなく、神に信頼することであった。それが、ご自身の十字架の死に至るとしても、イエスは神に信頼した。十字架の死で終わるとしても、神に委ねた。神は善きことを為し給うと信頼した。しかし、人間はここに至ることができない。

それゆえに、人間の罪がどこにあるのかをイエスは述べる。「民の支配者であると考えている者たちが彼らに権力を奮っている。そして、彼らの大いなる者たちが彼らに権威をもって支配している」。この姿がこの世においては一般的であり、この世の支配は力の支配である。これは、アダムとエヴァが望んだ「神のようになる」ことと同じである。人間である支配者の意志が優先され、支配される者たちはその意志を実現するために使われる道具に過ぎない。アダムとエヴァは、「神のようになる」ことを望み、神を越えて、神を支配しようとした。これが原罪である。我々人間一人ひとりのうちに住んでいる罪である。この原罪を抱えた人間が、神の意志に従うはずはない。ゼベダイの子らの意志も、これと同じ。イエスの「栄光」を認めているかのようでありながら、実は自分たちの栄光を求めている。この世の子らは、王の家臣として耐え忍びながら、いつか王を倒し、自分が王になることを願う。そこまでの力が無ければ、強い者のそばで強い者の権力の一部を使わせてもらおうとする。ゼベダイの子らの意志はこのような罪の意志である。

創世記8章21節で神ヤーウェが言う「人間の心は悪を形作る、その幼きときから」という言葉は真実である。それゆえに、この現実を人間が覆すことはできない。ゼベダイの子らだけではなく、彼らに腹を立てる他の弟子たちも同じである。あわよくば、自分が上に立とうとする。自分が大きくなろうとする。誰かの上に立ち、自分の意志を実現しようとする。これが我々人間に宿る罪だとは弟子たちも認識していないであろう。それが原罪の働きなのだから。原罪は、我々が当然の権利だと思う心に潜んでいる。権利主張もまた同じ原罪の根を持っていることを誰も知らない。人間の意志の実現がその目的であることを知らない。これが我々のうちに住む罪の現実である。この罪は、さまざまな形で我々を動かし、見えない形で罪を犯させる。これに対抗しようとして、多くの者が罪に陥ってきた。対抗する心に罪が住んでいるのだから、結局腹を立てる他の弟子たちと一緒である。この原罪の罠から誰が抜け出すことができるであろうか。

人間には抜け出せない。神が新たに創造してくださらない限り、我々人間は神の意志に従う者になることはない。この神の新たな創造が、イエスがおっしゃる「存在の未来」である。「あなたがたの奉仕者として存在するであろう」、「すべての者たちの奴隷として存在するであろう」とイエスはおっしゃる。それが人の子の到来の意味だと言う。当時、人の子はメシア、キリストだと考えられていた。その姿は「王」として到来し、ローマの支配から解放してくださると期待されていた。ところが、イエスはこの人の子への期待を逆転する。人の子は「奉仕するために来た」と言い、その魂を多くのものたちに対する贖い金として与えるためだと言う。人の子の到来は、民の解放のためであり、支配するためではないと言う。人の子への人々の期待を裏切るイメージを弟子たちに与える。そうであれば、ゼベダイの子らの願いは実現しようがない。実現するとすれば、彼らが人の子の右と左で人々に奉仕することにおいて実現するであろう。人の子と一緒に自分の魂を贖い金として与えることにおいて実現するであろう。これが神の意志だとイエスは言うのだ。

我々人間がイエスに従うとき、イエスと同じようなところへと導かれるのは当然である。たとえそれが、ゼベダイの子らのようにイエスの右と左に座ることであってもである。イエスが王座に就いて、自分たちも右大臣、左大臣になることを夢見たとしても、イエスが奉仕者になるのであれば、右大臣、左大臣も奉仕者になるであろう。これが、彼らが望んでいることである。そして、彼らの現存在は、彼らの未来を内包している。それが彼らの意志とは反対であろうとも、存在に内包された未来が現れるであろうとイエスはおっしゃるのだ。

従って、奉仕者、奴隷としての未来は、彼らの存在の未来である。これは神の必然であって、彼らの恣意に委ねられていることではない。イエスが神の意志に従うのであれば、彼らも必然的に神の意志に従うであろう。この存在の未来は、神の意志であり、神が彼らを新たに創造することである。そこに至るために、彼らが為すことができるものは何もない。彼らがイエスに従うようにされたときに決定している未来である。だから、彼らには選択の余地はない。選択しようとして、罪を犯してしまったアダムとエヴァの原罪を克服することは、人間にはできないからである。神ヤーウェが言う通りに、我々「人間の心は悪を形作る」からである。

悪を形作る我々の心が意志することは悪でしかない。しかし、イエスに従うことは、我々の意志ではない。神が、我々をそのように召して、導いておられる。それゆえに、我々は自らの今までを捨てて、イエスに従ったのだ。捨てることのできない存在が、捨てて従ったのは、神がそのように働いてくださったからである。ルターが言うように、信仰とは「我々のうちに働く神の活動」なのである。信仰を起こされた我々は、人間的な思いに従って、イエスに従おうとしたかも知れない。しかし、イエスに従うようにしてくださった神の意志が実現する。それがキリスト者の歩みである。我々が悪を形作ろうとも、その悪さえも神の意志を実現するものへ変えられてしまう。この神の意志の絶対的必然性から逃れうる者は一人もいない。イエスが弟子たちに述べる言葉は、神の意志の必然なのである。

人の子は、すべての者たちにご自身を与えるために来てくださった。四旬節を歩む我々は、この人の子の到来を待ち望む。我々の意志とは正反対の未来であろうとも、我々はイエスに従う。そのように召されたのだから、そのように従う。決定されたことは、我々の存在に内在する未来である。奉仕者になりたくない者も、奉仕者として存在するであろう。奴隷になりたくない者も、奴隷として存在するであろう。誰かのために存在する者になるために、我々は召され、イエスの十字架と復活を通して、造り替えられる。新たな未来の存在として造り替えられる。

四旬節はこの未来を望み見て歩む40日である。荒野の誘惑、荒野のさすらいをイエスと共に歩む。主のご復活の日には、我々は自らの未来に向けて造り替えられるであろう。自分の十字架を取って、イエスに従うであろう。あなたの現在は、あなたの未来を内包し、実現されるべき未来。仕える者として生きる未来。原罪を働かなくされて仕える未来。この未来に向かって、共に歩み続けよう。主の十字架と復活を望み見ながら。

祈ります。

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