「至聖所」

2021年3月7日(四旬節第3主日)
ヨハネによる福音書2章13節-22節

「しかし、その方は言った、彼の体の至聖所について」と注釈が施されている。それが判明したのは、死者たちの中から彼が起こされたときだと言う。つまり、復活のときに、イエスの体の至聖所が起こされたと判明したわけである。この「体の至聖所」とはいったい何であろうか。

新共同訳では「神殿の境内」と「神殿」という二つの言葉が使われている。神殿領域全体を「神殿の境内」と呼び、神殿そのものを「神殿」と呼ぶ。「神殿の境内」のことをヒエロスというギリシア語で表し、「神殿」をナオスというギリシア語で表している。ヒエロスは神殿領域であり、その中にナオスである神殿そのものが立っている。その神殿の中心もナオス、「至聖所」と呼ばれる。イエスが破壊せよとおっしゃったのはこのナオスであり「至聖所」のことである。そして、ご自身の「体の至聖所」を三日で起こすとおっしゃった。それゆえに、弟子たちはイエスの復活の後、イエスの十字架と復活をイエスの体の至聖所の起こしとして理解したということである。

さらに、このイエスの神殿浄化の行為を見て、聖書に書かれている言葉を思い起こしたとも言われている。「あなたの家の熱意がわたしを食い尽くした」という詩編69編10節の言葉である。この言葉が語っているのはいったいどういう状況であろうか。これは神殿祭儀を守るために懸命になっている人々の「熱心」が詩編作者を食い尽くしたということである。新共同訳は、イエスの神殿を思う熱意が神殿浄化の行為を行わせたと理解している。しかし、そうではない。先の詩編の言葉に合わせて、イエスご自身を食い尽くすであろう神殿祭儀を守る指導者たちのことを語っているのである。つまり、イエスの十字架刑は神殿祭儀を守らんとしているユダヤ教指導層によってイエスご自身が「食い尽くされた」出来事とされているのである。イエスを十字架刑に処した人々は祭司長たちであり神殿祭儀を守るために熱心であった。エルサレム神殿がなければ神殿祭儀はできない。エルサレムがローマ軍によって陥落したのちは、神殿祭儀が現実的に不可能となり、シナゴーグという会堂における聖書中心の礼拝のみが行われるようになった。これが紀元後70年以降のユダヤ教の歴史である。このユダヤ教の立て直しに尽力したのがファリサイ派である。ファリサイ派は神殿祭儀よりも、律法の日常への適用に心を尽くしていた。これが律法主義に陥ることにもなる。イエスは神殿祭儀を否定し、律法主義も否定した。そして、「霊と真理における礼拝」を預言した。それが、イエスの体の至聖所の起こしであり、ヨハネ福音書4章におけるサマリアの女との対話に出てくる礼拝の本質である。

サマリアの女との対話において、イエスは場所に限定されない礼拝について語っておられる。サマリアの山でもエルサレムでもないところで父なる神をあなたがたが礼拝するときが来たるであろうと。礼拝は、エルサレム神殿にもサマリアのゲリジム山の神殿にも縛られることなく、「霊と真理のうちに父を礼拝する」という出来事である。そのような礼拝を行う者が「真実に礼拝する者たち」と呼ばれている。そして、そのような礼拝は神殿に縛られることがない。それゆえに、神殿が破壊されたとしても、礼拝可能なのである。ただし、「霊と真理のうちに礼拝する真実なる礼拝者」であるならば、である。この真実なる礼拝者を起こすのが、イエスの体の至聖所である。

イエスの体の至聖所はその礼拝の中心。この至聖所が起こされることがイエスの復活なのである。それゆえに、イエスを信じることそのものが礼拝である。イエスの体の至聖所において、「霊と真理のうちに礼拝する」ことが我々キリスト者の礼拝である。この礼拝は場所に限定されないがゆえに、どこにおいても二人、または三人がイエスの名において集まるところに、イエスご自身もおられるとマタイによる福音書で語られている通りである。

イエスの体の至聖所による礼拝が我々の礼拝である。その体の至聖所はイエスご自身であり、イエスご自身のうちに我々が入ることが礼拝であり、信仰なのである。信仰とは、神の言葉が語られたときに、その言葉のうちに身を堅くすることであると関根正雄が語っている通りである。このような礼拝は、礼拝する姿勢そのものだと言える。従って、この礼拝堂に集まることが礼拝なのではない。たとえ、ここに集まっていたとしても、礼拝する姿勢が神殿礼拝と同じであるならば、それは礼拝ではない。建物そのものは建物でしかない。礼拝のために建てられた建物であっても、建物に聖性があるわけではない。その建物を用いて、礼拝をなさしめ給う神にこそ聖性が存するのである。我々が建物を大切にすることは大事なことであるが、建物に縛られることはない。また、場所に縛られることもない。イエスの体の至聖所に集められているならば、場所に限定されることはないからである。

イエスは、そのために神殿浄化の行為を行い、それゆえに神殿を守ろうとする人々によって、殺害された。この殺害こそがここで言われている「あなたの家の熱意」である。そうであれば、「あなたの家の熱意」は「家」に対する熱意であって、「あなた」である神に対する熱意ではない。むしろ、「あなた」よりも「家」を熱心に求めていることになる。イエスは、そのような信仰の姿勢を批判して、神殿浄化を行った。そして、十字架の道を歩まれた。たとえ、食い尽くされたとしても、神が起こし給うわたしの体の至聖所があると、十字架の道を歩まれた。このお方の真実の熱意は、我々人間を解放するための熱意。縛り合うことから解放し、ただ神の言葉を聞くことを中心として生きるようにと願ってくださった。その結果が、十字架であり、そのイエスの真実への神の肯定が復活なのである。

我々キリスト者は、このお方の真実なる熱心を自らの熱心として歩む。このお方の体の至聖所に包まれながら歩む。このお方の至聖所が、我々の生の根源であると歩む。新しいいのちの根源が、イエスの体の至聖所なのである。この至聖所から、神の言葉が発せられ、この至聖所において、神の赦しのみことばが語られる。我々は神を讃美し、神に祈る。これだけが我々キリスト者の礼拝である。それゆえに、使徒パウロが言うように、「あなたがたの体を、神に喜んでいただく聖なる生ける犠牲として献げること」が「あなたがたの論理的礼拝」なのである。この礼拝は、場所にも形式にも縛られることなく、いつ如何なるときにも可能な礼拝である。イエスが解放してくださった自由における礼拝姿勢こそが、我々キリスト者の礼拝である。

このような礼拝が行われているならば、如何なる場所であろうと、我々は礼拝に与ることができる。神の言葉を聞くことができる。神の意志に従う在り方を身につけることができる。そのような礼拝が行われるために、イエスは神殿浄化の行為を行い給うた。それが、神殿祭儀を重要視する祭司長や律法学者たちの憎しみの熱意に火を付けた。それでも、我々一人ひとりの信仰のために、イエスはご自身を献げてくださったのだ。このお方の至聖所に包まれている我々は、他者を縛ることなく、他者に縛られることなく、自由の霊の中で、主に仕える。我々の日常の生活にもこの礼拝の姿勢が中心としてあるならば、我々の日常も礼拝となる。日常の中で、神の言葉を聞き、神の意志を受け入れ、イエスに従う生活が可能となる。

四旬節を歩む我々は、神の息子であるイエス・キリストが回復してくださった真実の至聖所に入り行くために、日々悔い改めて歩み続けたい。そのために、イエスはご自身の体と血を我々に与えてくださる。今日もまた、イエスの体と血に与り、イエスのうちに生き、イエスが我々のうちに生きてくださる信仰の生を生きていこう。ご復活の日に、共に真実なる礼拝に参与するために、四旬節を心して歩みたい。ご自身の体が滅ぼされてもなお、あなたの救いを願ってくださったお方があなたに差し出し給う体と血は、あなたをご自身と同じ形に形作ってくださる天の食べ物、天からのパンなのだから。

祈ります。

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