「世を愛する神」

2021年3月14日(四旬節第4主日)
ヨハネによる福音書3章13節-21節

「ちょうど、モーセが蛇を高く上げたように、荒野において。そのように、人の子が高く上げられることは必然である」とイエスは言う。それは「彼のうちで信じる者すべてが、永遠のいのちを持つため」であると言う。モーセが荒野において高く上げた青銅の蛇は、炎の蛇に噛まれた人たちのいのちを救った。それと同じように、人の子は永遠のいのちへと救うのだと言う。ただし、高く上げられた青銅の蛇と同じく、人の子を信じて仰ぐことが必要なのではあるが。

ここでは「信じる」ことが救いに関わることのように語られている。つまり、信じるならば救われるというように思える。信じることは救いの条件のようである。ところが、この後のイエスが語る言葉においては、信じる者と信じない者がすでに決まっているかのように語られている。これはどういう事態であろうか。

信じるということがすでに決まっていることであるとすれば、「信じなさい」と宣教する必要もないことになりはしないか。宣教の必要性はあるのかという疑問が生じるであろう。ところが、ヨハネ福音書においてはロゴスである神の言葉、すなわちイエス・キリストが語る言葉が一人ひとりに信仰を起こす働きをなす。その際、ロゴスを受け入れた者は信じる。ロゴスを受け入れない者は信じない。この二者択一が生じることになる。

信仰を起こす働きは神の働きであるから、神の働きに自分自身を開いているならば、神の働きを受け入れるであろう。そうでなければ、自分を閉じているのだから受け入れない。こうして、自分で自分を闇に閉じ込めてしまうことが生じるのである。それが日課の3章18節以降で語られていることである。19節で「闇を愛した」と言われているように、ロゴスを受け入れず、信仰を受け取らない者は「闇を愛する」存在だということである。それは自分を失いたくないということでもある。自分の自然的魂の思いを憎み、捨てなければ、自分の魂を救うことはできない。これは共観福音書でもヨハネ福音書でも同じである。従って、我々人間はすべて自然的には救われ難い存在なのである。ところが、そこに神の言葉であるロゴスが神の意志を語ることが生じる。神の意志であるロゴスは人間たちを愛する神の意志である。それゆえに、ロゴスが語るのは神の愛。神はお造りになったすべてを愛しておられる。それは当然である。ご自身が心を込めて造った存在を愛さないはずはない。しかし、人間は堕罪の結果、神の愛を信じることができなくなってしまった。それゆえに、神は独り子を我々世に与えてくださったのだとヨハネ福音書は語っている。

神の独り子を与える神の愛はすべての人間に注がれている。注がれている愛はそれだけでは一方通行である。受け取られてこそ、愛はその人のうちに宿る。こうして、愛は完成する。与える愛は、受け取られる愛において、完成する。与えられたものを受け取るとき、受け取る存在が与えられたものに満たされる。こうして、我々は神の賜物に満たされて、神に愛された存在として生きる力を与えられる。受け取りにおいて、世を愛する神ご自身が我々のうちに働いてくださる。これが今日イエスがおっしゃっていることである。

そうであれば、我々は受け取るだけで十分なのである。受け取ることによって、神の力に満たされる。受け取ることによって、神が我々を愛する愛に包まれる。わたしを包んだ神の愛がわたしを支配し始める。こうして、我々は信じることが可能とされるのである。あくまで、神の愛が我々を信じる者とする。それゆえに、我々が信じるとしても神の働き中で信じるのであり、神の働きがなければ信じる者にはなり得ない。この事実は、受け取った者にしか認識できない。従って、認識している人は信じている人。信じている人は神の働きに与っている人。神の働きに与っている人は、神に信頼して従っている人。従う人は、いかなることが起ころうとも、神の前に立つ。光の中に立つ。自分自身の罪深い姿を神の前に晒しながらも、神の救いを信じて祈っている。これが救われている者の姿である。この世のすべてがここに至るようにと、神は独り子を我々に与えてくださった。ここに愛がある。

この神の愛は、すべてのことを働き生み出す力である。それゆえに、神を信じるものが信じているのは、「神のうちで働き生み出されてしまっている働きが明らかにされてしまうために」、「光へと来る」と言われている。あくまで、神のうちで働き生み出されてしまっていることが完了しているのである。その完了したものが自分のうちにあると見ている人が、光へと来る人である。その人は、神に受け入れられるために生きることはない。すでに、神に受け入れられていると信頼しているからである。神の愛を信じているからである。こうして、神の働きに与っている人はすでに救われている。神の働きを拒否する人は、救われることはない。これが信じるという条件のように語られていることの内実である。

これはすでに決まっており、覆しようがない。しかし、それを判断するのは人間ではない。神である。我々人間が他者が救われているか否かと判断してはならない。また、自分自身も判断してはならない。あくまで神が判断なさる事柄。それゆえに、終わりの日に至るまでは誰も先走って裁いてはならないのである。それでも、今現在聞く耳を開かれている者、目を開かれている者は存在している。そこでは、終末の裁きは先取られている。この「すでに」と「未だ」の間で生きるようにされているのが我々人間なのである。

「すでに救われている」者と「未だ救われていない」者は今現在存在している。それでも、現在は終末ではない。終末までの時の中で、「すでに」が「未だ」になり、「未だ」が「すでに」になることも起こり得る。それゆえに、救われていると信じて安心する一方で、救われているところから堕ちないように気をつけていることも必要である。また、救われていないと落胆することもない。「未だ」は「すでに」を内包している。世を愛する神が、世のために独り子を与え給うたのだから、「未だ」であろうとも「すでに」となる可能性があるのだ。神の愛に終わりはないのだから。世を愛する神の愛が存在する限り、我々は救われる可能性に包まれている。

救われることが、我々から発しない受動態であることを忘れてはならない。救われていることを誇るならば、受動的に生きていない。誇るべきは神の愛。誇るべきは神の働き。誇るべきは主の十字架。我々人間そのものは誇り得ない存在。ただ神の憐れみによって救われた存在。神の愛がわたしを包んでくださったがゆえに救われた。あなたが罪深かったとしても、神の救いの力を妨げることはできない。如何なることにも、神の働きは宿っている。たとえ、我々が悪であってもなお、神はご自身の働きに用い給う。この力ある神が、あなたの神、あなたの主イエス・キリストの父なる神。世を愛する神。世の造り主である。

従って、造られたものはこのお方の意志に従う。従わないものが闇。世は闇に隠れてしまった。それが罪の結果である。その闇に神は光を送り、照らしてくださった。そのお方がイエス・キリスト、世の救い主。キリストは、神の言葉ロゴスであるがゆえに、キリストが語り給う言葉が神の意志である。神の愛である。神の憐れみである。この憐れみは、あくまで神が与えるものであるがゆえに、我々は受けるしかない。受け取るとき、我々のうちに神の言葉が力となって働き給う。そのとき、我々は光の子として生きることが可能とされる。真理である神の言葉の働きによって、我々は隠れることなく、罪深きままに神に愛されていることを知るであろう。

ご自身の愛のうちに受け入れるために、神は独り子を派遣してくださったのだ。独り子を信じるとは、神の愛を信じること。独り子を信じる者は、神の愛のこどもとして生きる。愛に包まれている自分を知り、自分を受け入れて生きる。自分らしく生きる。あなたは愛されている者。あなたは神の愛の賜物。神の愛によって永遠に生きる存在なのである。

祈ります。

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