「ロゴスの裁き」

2021年3月21日(四旬節第5主日)
ヨハネによる福音書12章36節b-50節

「彼が見えなくしてしまっている、彼らの目を。彼が固くした、彼らの心を」とイザヤは語っている。「彼」とは神ヤーウェのことである。神が目を見えなくする。神が心を固くする。その結果、「目に、彼らは見なかった。心に、彼らは認識しなかった」ということになると述べられている。神は、どうしてそうするのか。神の言葉がそうするのである。ロゴスである神の言葉が見えなくし、固くする。マルティン・ルターが言うように、神の言葉が語られることで、神の言葉を拒否することが起こるとすれば、それは神の言葉がそうしているのである。見ないこと、固くなることの根源に、神の言葉ロゴスがある。これがヨハネが語っていることである。

我々人間は、神の言葉を拒否する自分を生きている。しかし、そこに神の言葉が語られていなければ、拒否は起こらない。従って、神の言葉が語られたがゆえに、拒否が起こるのである。それゆえに、神の言葉が拒否を起こし、心を固くすることが起こる。我々人間が神を拒否すること、心を固くすることは、我々の行いであるが、神の言葉ロゴスがそれを起こしてしまう。これが、イザヤが語っている「ロゴスの裁き」である。

ロゴスは裁きとして存在する。それを受け入れるか、受け入れないかを分けるのがロゴスである神の言葉なのである。この裁きを来たらせるのは、人間自身であるようでいて、神の言葉自身が裁きを起こしてしまう。神の言葉が裁きを起こすようで、人間自身が自ら裁かれてしまう。これが「ロゴスの裁き」である。従って、「ロゴスの裁き」は人間のうちに働く神の言葉ロゴスが起こす裁きなのである。人間は、ロゴスに従って、裁かれることもあり、裁かれないこともある。いや、裁かれないということはないのだ。なぜなら、ロゴスの裁きは義しい裁きだからである。いわゆる裁かれないという事柄は、ロゴスの裁きを受け入れるときに起こることであるから、裁かれない者として義しく裁かれているのである。

自分で自分を裁きに委ねることも、裁かれないように逃げることも、同じロゴスが起こす裁きなのである。そうであれば、ロゴスは必ず裁くのである。しかし、イエスご自身は裁かないと言われる。そうである。イエスが裁かなくとも、イエスが語り給うた神の言葉ロゴスが、ロゴスを聞いた人を裁く。受け入れる人と受け入れない人に分ける。それだけが真実に裁きなのである。この裁きは、終わりの日の裁きを反映している。終わりの日に至っていない今、裁きが存在している。これが、イエスが語っておられることである。裁かれることは、終わりの日を反映しているがゆえに、裁かれる人は終わりの日を生きている。つまり、永遠のいのちを生きている。裁きを逃げる者も終わりの日を生きている。つまり、永遠の死を生きている。このように分けられることが真実の裁きなのである。従って、この裁きを逃れることは誰にもできない。誰もが裁かれている。誰もが終わりを生きている。終末の裁きを今生きている。イエスはそのように語っておられる。

我々が裁きを逃れて、救われようとするとき、我々は滅びを生きてしまっている。反対に、裁きを受け入れて、滅びを受け入れる者は、救われる。この逆説が、イエスの十字架が語っていることである。イエスの十字架は、滅びの十字架でありながら、復活の救いを生きる十字架である。我々が神の裁きを受け入れるとき、我々は神の救いを生きることになることも、この十字架から来たる。十字架と自らの生を一致させることになる。こうして、我々のうちにイエスの十字架が生きる。これが、我々とイエスとの一体化。イエスのいのちとの合一。イエスの救いへの参入。裁かれることを受け入れるとき、我々は救われているのである。

しかし、救われようとして、裁きを受け入れるとすれば、それも滅びである。救われようとしてはならない。救いは、我々人間が起こすことはできないからである。あくまで、我々人間は、自らの罪を認め、神の裁きの前にアーメンと言うしかない。そのとき、我々は神の言葉ロゴスに従って生きている。そのとき、我々は救われている。しかし、アーメンと言わず、滅びないようにと裁きを逃げる存在は、反対に滅びに定められるであろう。これが神の逆説。十字架の逆説。これはイエスがヨハネ12章25節でおっしゃっていることである。「彼の魂を友愛する者は、それを破壊している。そして、この世において、彼の魂を憎む者は、永遠のいのちへと、見守るであろう、それを」と。見守るのだから、その人は神が守り導き給う自分の魂を見守っている。その人は、自分で自分の魂を守ることはしない。神が守り給うことに信頼している。いや、神の裁きに委ねている。それゆえに、自分の魂がどのような結果になろうとも、神に信頼して委ねているのである。これこそが真実に信仰と呼べる出来事である。

信仰は、自らを見守り、神に委ねて、信頼している。滅びに定められたとしても、神のご意志に従いますと受け入れる。「神さま、あなたの裁きは義しい」と受け入れる。そのとき、我々は救われている。滅びに定められてもなお救われている。なぜなら、わたしは義しく裁くお方のうちに生きているからである。義しい裁きを良しとしているからである。義しい裁きこそ平和だと受け入れているからである。これが信仰において生じる事態だとすれば、信仰は我々人間からは生じない。あくまで、神が起こし、神が信じさせ、神が最後の決定を下している。それゆえに、神の義が全うされている。これこそが、真実に義なのである。

我々を裁くお方は義しい。我々を裁くお方は愛そのもの。我々を裁くお方は真実。我々を造り、我々を生かし、我々を救い給うお方。このお方の許で、我々は救われる。神の言葉ロゴスは、このお方の許に我々をつなぎ止める。神の言葉が語られることによって、このつなぎ止めが起こっている。起こっているつなぎ止めに従うとき、我々はロゴスの裁きに信頼して、すべてを委ねている。この委ねこそが信仰なのである。信じる者は、裁きを受け入れているがゆえに、滅ぼされることはない。滅びに定められても、滅びの定めを受け入れる人は、ロゴスと一体化されているがゆえに、滅びることはない。ロゴスと一つであるその人の魂は滅びることはない。ロゴスが生きる限り、その人の魂も生きる。永遠に生きる。永遠のいのちとはロゴスと共なるいのちなのである。

あなたが、神の言葉を聞き、「アーメン」とだけ応答するとき、あなたは神の言葉ロゴスと一体とされている。そして、救われている。自らの滅びの定めを「アーメン」と受け入れるとき、あなたはロゴスの裁きを受け入れている。それゆえに、あなたは救われている。ここにも神の逆説的救いがある。逆説とは言え、実は素直にロゴスに従うか否かだけである。ロゴスに従う者は救われている。従わない者は滅びに定められている。それだけの単純なことなのである。従って、滅びないようにすることは我々にはできない。滅びを受け入れることによってしか、滅びからの解放はない。それでも、滅びないために滅びを受け入れるなどということは、この世の地上的価値観からは起こり得ない。滅びを受け入れれば滅びてしまうと考えるからである。滅びることを「アーメン」と受け入れることができないからである。もし、受け入れるとすれば、その人は受け入れるように定められている存在である。それゆえに、滅びを受け入れることは必然的に生じる。思惑を持つことなく、ただ受け入れているとき、その人は救われているからである。救われているということは、終末を今生きているということである。しかし、この救いさえも、我々は失うこともある。それゆえに、常に神の言葉ロゴスを聴き続ける必要がある。イエスの言葉を聴き続ける必要がある。聴き続ける者は、救いを失ってもなお、再び生きるであろう、神の救いの中で。これを実現し給うのは神ご自身。あなたにご自身の体と血を与え給うイエスご自身。イエスの体と血はあなたを救い給うお方の救いの力。この力に与って、共に生きていこう、神の救いを。あなたは救いを生きるべく召されたのだから。

祈ります。

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