「欠乏への接近」

2021年3月28日(枝の主日)
マルコによる福音書11章1節-11節

「彼の主人が必要を持っている。そして、すぐに彼を彼(主人)は派遣している、再び、ここに。」とイエスは弟子たちに言うように命じる。子ロバの主人が子ロバを必要としている現在があり、その現在においてすぐに再びここに派遣していると言う。必要としている現在と派遣している現在が重なっているような表現である。それこそが神の現在であり、神は常に現在であるということである。さらに、この言葉で表されているのは、主人として表されているキュリオスが主体である世界である。ロバは、主人の必要に用いられ、主人の派遣に委ねられている。イエスが語っている現在は、主キュリオスの現在なのである。この現在の主は神である。イエスのことではない。神の必要、神の派遣を子ロバは受けている。その子ロバに乗るイエスも同じく、神の必要に用いられ、神の派遣を受けているということである。イエスの子ロバに乗るエルサレム入城は、神の主体の下で行われたのであり、イエスは最終的に神によって派遣される。神の必要はイエスの十字架であり、神の派遣はイエスの復活である。そして、この派遣は、欠乏への接近だと言える。なぜなら、子ロバの必要と派遣は、「オリーブの山のところのベトファゲとベタニアへと近づいた」ことから始まるからである。

「ベトファゲ」という地名は、「若いいちじくの木」、未だ実をつけていないいちじくの木を表す名である。また、「ベタニア」は「悩む者たちの家」、「貧しき者たちの家」という意味である。さらに、「必要」とは「欠乏」のことでもある。欠けているから、不足しているから必要だということである。ベトファゲもベタニアもさまざまな欠乏に満ちたところであり、さまざまなものを必要とする人たちが暮らしていた村である。そこへと接近することにおいて、イエスは子ロバを求めた。イエスは、ご自身が子ロバのように神に求められ、必要とされ、派遣されることを表すために、子ロバを求めたと言えるであろう。イエスのエルサレムにおける十字架と復活の出来事が「欠乏への接近」であり、欠乏している存在のためにご自身を神に献げる出来事であることを表す行為。それがイエスのエルサレム入城なのである。

我々は何に欠乏しているのか。誰が欠乏しているのか。この世の価値の中で欠乏を感じることはある。しかし、神の世界において欠乏を感じることがあるのか。貧しさ、難渋、悩み、未熟さという欠乏を感じるとしても、自分自身の存在の欠乏を感じるであろうか。いや、誰もが感じているはずである。しかし、その欠乏を何によって埋めるかが違っている。この世の価値の中で、この世の物質で埋める場合、わたしの魂の欠乏は埋めることができない。魂の欠乏は、罪だからである。罪をこの世の物質で埋めることはできない。この世の力で埋めることもできない。真実に欠乏を感じる人は、自らの魂の欠乏を感じる人である。自らの魂が罪深い魂であることを知っている人である。その人は、魂が満たされるために、この世の物質に固執することはない。むしろ、この世の物質では埋めることができない欠乏を感じているのだ。そのような人は神に祈る。神のみが満たすことができるお方であると祈る。神のみが満たすことができるものを求める。その際、我々がこの世の物質との交換によって、神の満たしを受けようとするならば、その人は真実に魂の欠乏を感じてはいないということになる。なぜなら、この世の物質との交換によっては、魂の満たしは生じないからである。物質は物質と交換するものであり、物質と魂は交換できないからである。

イエスが接近した「欠乏」とは何か。この世においては「貧しさ」であり、「苦悩」であり、「未熟さ」であるが、その根底にある「欠乏」へとイエスは接近した。「貧しさ」を生み出し、「苦悩」を生み出し、「未熟さ」を生み出す根底にある「欠乏」。それが罪である。もちろん、貧しい人が罪深いということではない。貧しさを生み出している社会が罪深いのだ。苦悩を生み出している社会が罪深い。未熟さを生み出している社会が罪深い。未熟であることも一つの苦悩である。未熟であることは、用いられることなく、熟すまでは不要だと思われている。その象徴が子ロバである。不要だと思われる子ロバをイエスが用いる。いや、神が用いる。そこにおいて、この世の価値は転倒されている。

未熟さは、用いられてこそ、熟していく。我々のこどもたちも未熟であるが、未熟であるがゆえに用いるべきである。その子の未熟さが新しい価値を生み出す契機になる。その子の未熟さが熟した大人たちの価値を転倒するであろう。本来用いられないはずの子ロバなのだ。それゆえに、子ロバを解く弟子たちに人々は言う。「このことを何故、あなたがたは行うのか」と。その子ロバは縛られている子ロバであった。つまり、身動きできないようにされていたのである。その子ロバを解くことは、未熟であっても用いられることを示している。主が必要を持っているならば、用いられる。これが、子ロバを解くようにと命じたイエスの意志、神の意志である。

従って、イエスが接近した欠乏は、欠乏ではない。この世の価値の中で、欠乏だと考えられていただけである。貧しさも、悩みも、未熟さも、欠乏ではないとイエスは接近する。その欠乏の最たるものが十字架なのである。十字架へのイエスの接近は、欠乏への接近であり、欠乏は欠乏ではないと語る接近である。それゆえに、十字架は欠乏ではない。むしろ、主が用い給う満たしである。主が派遣し給う満たしである。神の満たしである十字架へと接近するイエス。このお方の十字架と復活によって、この世の価値は転倒され、新たな価値を付与される。神の世界には欠乏はないと語られる。神の世界はすべてが満たされ、生かされる世界であると語る十字架。イエスは、この十字架へと接近し、十字架を引き受け、貧しき者たち、悩む者たち、未熟な者たちに新しい価値を付与する。イエスの接近によって、世界は少しずつ広げられていく。神の世界の価値へと広げられていく。

我々が過ごす、この聖なる週は、イエスの欠乏への接近を共に歩む週である。聖なる週の中で、欠乏が満たしに変えられていく。欠乏のどん底で変えられていく。欠乏を満たしに変えるイエスの歩みを、我々も共に歩む。そのとき、我々自身の欠乏も満たしへと変えられていく。聖なる週は、欠乏へと接近しながら、満たしを開いていく神の御業に与る週。どん底に至らなければ開かれない神の御業が、究極に達する週。それは、我々人間の罪深さが究極まで突き詰められていく週でもある。聖なる週に共に与る聖週間礼拝において、我々は自らの罪深さを底の底まで経験する。最底辺に至らなければ、上ることはできない。罪深さの底に沈められなければ、復活の喜びに与ることはない。イエスが接近した欠乏が、自らの罪であることを受け入れることが、我々が神の満たしに与ることなのである。

イエスが欠乏のどん底で、神によって起こされたように、我々もまたイエスと共に、どん底に至るならば、イエスと共に起こされるであろう。イエスが接近した欠乏が満たしであることを知る者は幸いである。この世の価値の転倒を経験する者は幸いである。イエスが先立って行き給う道は、我々のために備えられている。我々の救いのために備えられている。我々の新たな道が開かれるために備えられている。この道行きを共に歩んでいこう。主なる神は、あなたを招いておられる。この地上にあって、呻吟するあなたを招いておられる。この世にあって、困窮と悩みの中にあるあなたは神に用いられる器。神の満たしを受け入れる器。欠乏しているあなたが満たされるあなた。欠乏している世界が満たされる世界。この世界へと接近し給う主イエスを喜び迎えよう。

聖なる週の一日一日があなたを恵みの下に導いてくださる。復活の喜び、新しい世界の喜びへと派遣してくださる。神はあなたを必要としておられる。欠けていても神は用い給う。欠けていても神は満たし給う。あなたを愛するお方があなたの主。あなたの造り主。あなたの神なのだから。

祈ります。

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