「完成への愛」

2021年4月1日(聖週木曜日)
ヨハネによる福音書13章1節-17節

「もし、これらをあなたがたが知ってしまっているならば、あなたがたは幸いな者たちとして存在している。もし、あなたがたがそれらを行うならば」とイエスは言う。「知ってしまっている」ことと「行う」ことが仮定で述べられているが、これは条件である。「幸いな者たちとして存在する」条件が「知ってしまっている」ことと「行う」ことだとイエスは言う。「知ってしまっている」だけではなく、「行う」ことが必要だと言う。そうである。「知ってしまっている」ことは「行い」に結実しなければ、知らないことと同じだからである。つまり、内実と現れが一致していることが「幸い」の条件なのである。

我々人間は「知る」ことは誰にでも可能であるが、「知ってしまっている」ことを実行するに至る人は少ない。なぜなら、「実行」は「知ってしまっている」ことがその人の内実となり、その人を動かす原動力とならなければ、真実に「知ってしまっている」ことにはならないからである。イエスは実行を求めておられる。実行すれば「幸いな者たちとして存在している」のである。そうであれば、我々は誰でも「幸いな者たちとして存在している」とは言えない。実行する者が「幸いな者」なのだから、実行し得ないとすれば我々は呪われているのである。何に呪われているのか。原罪である。

我々のうちに住む罪、原罪は、我々を呪われた者としている。我々が他者に仕えることを実行できないのは、原罪の所為である。しかし、原罪は我々人間が招き寄せたものなのだから、我々に責任はないとは言えない。原罪を招き寄せた責任は我々人間にある。原罪に陥ることを抑えることができなかった。むしろ、喜んで罪を犯した。それゆえに、我々は罪を犯すように生きてしまっている。ここから抜け出すことができるならば、まさに「幸いな者として存在している」であろう。イエスが示し給うた「型」に入ることができるならば、幸いな者である。イエスが示した「型」は、我々が入るべき「型」であり、我々がイエスの「型」に入るならば、実行可能とされる。自分の力で実行できるのは罪でしかない。原罪は、人間が自分の力で実行しようとして陥ったものだからである。それゆえに、イエスは「型」を示し給うた。イエスの「型」に入るようにと示し給うた。それがイエスの愛である。

1節で言われているように、イエスはご自分の者たちを「完成へと愛した」。新共同訳が訳す「この上なく」とは「終わりへ」、「完成へ」という方向性を示す言葉である。「完成」であり「終わり」であるから、これ以上はどこにも行くことができないという意味で「この上なく」と訳されている。この「完成へ」という言葉は、イエスの十字架上の言葉に対応している。イエスはご自身の霊を神に引き渡すに際して、こう叫んでおられる。「完成されてしまっている」と。イエスはこの「完成へと向けて」、「自分のものたちを愛した」のである。彼らが、イエスによる完成の中へと入るようにと、彼らを愛した。それが、洗足の出来事が示すイエスの「型」なのである。

この「型」はギリシア語でヒュポデイグマと言う。輪郭を描いて示すことであり、設計図のようなものでもある。新共同訳では「模範」と訳されている。この「型」は型に入って、そのとおりに行って行くことで、設計されたものが現れるものである。「型」に入らなければ、現れることはない。「型」に入ることによって、「型」を知り、「型」が現れることによって、「型」を体得する。これが、イエスが弟子たちに与えた「完成への愛」の「型」なのである。

弟子たちが、イエスが与えた「型」に入って、「型」を体得していくことで、イエスの愛は彼らを「完成へ」と導くであろう。入らなければ、完成へと導くことはない。いや、自ら完成への道を外れてしまう。「型」に入ることは実行できる力があるということではない。「型」を知らず、「型」を求めない弟子たちに、イエスが与えた「型」なのだから、弟子たちには力はない。しかし、「型」に倣って、「型」を行って行くならば、彼らは「型」に込められたイエスの愛を知るであろう。愛を知ることで、「型」を与えたイエスと一つとされる。「型」の中で、弟子たちはイエスと一体化される。こうして、弟子たちはイエスの「型」の中に入り、「型」を知り、「型」を自らのものとして生きることが可能とされる。彼らから出てくるはずのない「型」をイエスが彼らに与えたからである。

弟子たちから出てくるはずのない「型」であることをイエスはこうおっしゃっている。「彼の主より大いなる奴隷は存在していない」と。イエスの「型」に入ることは、イエスの奴隷として生きることである。イエスの奴隷であることは、イエスの「型」を自らの仕える「家」として生きることである。奴隷は家にいるからである。イエスの「型」に入ることによって、イエスの「家」に入り、生きる者とされる。これが弟子たちに互いの足を洗い合うことを求めているイエスの意志。弟子たちが、ご自身の家の者として生きることを願うイエスの愛である。

弟子たちは、イエスが備え給うた「型」に入るだけ。自分で「型」を作り出す必要はない。いや、自分で「型」を作り出そうとして、我々は原罪に陥った。それゆえに、与えられた「型」に入ることだけが我々が原罪を離れる道である。ただし、入るだけであり、我々に実行の力はないことを知らなければならない。

我々が実行の力を持っていると思い上がるとき、そこには比較が生じ、比較によって優劣を付ける争いが生じるであろう。そうなれば、イエスの「型」を破壊してしまう。イエスの「型」を守るのは、ただ入って、「型」を知るように努めることだけである。我々は「型」を作り出すことも、「型」を満たすこともできないと知らなければならない。その上で、「型」によって形作られて行くこと。これが「型」を知ることであり、「型」を実行することである。

イエスはこのように弟子たちを愛した。彼らが「完成へと」向かって歩むようにと愛した。洗足は、イエスの愛である。イエスが弟子たちを受け入れる愛。イエスが弟子たちを形作る炉。イエスの恵みに満たされる愛の器。彼らは、他者に仕えることによって、イエスの愛に満たされる。他者の足の前に跪くことによって、イエスに跪く。他者のために仕えているようで、イエスに仕えている。なぜなら、彼らはイエスの奴隷なのだから。互いに仕えることを通して、イエスに仕える奴隷。これが、イエスが彼らに「型」を与えた意味である。この「型」に入ることによって、彼らはイエスに仕えることを知り、イエスに仕える者として、互いに仕えることになる。彼らの世界が、この世の価値とは違う世界に変えられていく。争うことなく、比較することなく、互いをありのままに受け入れ合う世界。イエスの愛の家に共に住む世界。イエスの愛の中で、育まれる世界。この世界が来たることが、イエスが従った神の意志。イエスが完成させ給う神の世界。神が神である世界。人間が思い上がることなく、神に仕える世界。

イエスはこの世界を、最後の晩餐の席で、弟子たちに与え給うた。それは、イエスの体と血がイエスの「型」であることを示している。イエスの体と血が与える愛。イエスがご自身の体と血を与えてくださったのは、弟子たちとわたしたちがイエスのように互いに与え合う者として生きるため。人間の力ではなく、神の力によって生きるため。神がすべてにおいてすべてとなられる世界が開かれるため。その世界のために、イエスは「型」を与え、「型」に従って、十字架を引き受けてくださった。十字架を仰ぐ我々は、十字架の愛が注がれている自分自身を知る。十字架の愛によって、完成へと導かれていることを知る。イエスの体と血に与って、イエスと一つとされ、イエスの愛の家に住む者とされる。

我々が互いに仕える者として生きて行くために、献げられた尊いキリストの体と血に与って、キリストに従って生きて行こう。キリストと共に死に、キリストと共に生きる道を歩み始めよう。主のご復活の日を待ち望みながら。あなたがイエスの「型」によって完成される日を望みながら、イエスの十字架の愛の型に入って。

祈ります。

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