「言葉と価値」

2021年3月31日(聖週水曜日)
マタイによる福音書26章14節-25節

「何を、あなたがたは意志するのか、わたしに与えることを」とユダは祭司長たちに言う。ユダに与えるものと交換で、イエスを引き渡すと言う。イエスという存在を銀貨30枚で引き渡すということは、イエスの価値を銀貨30枚としただけではない。引き渡す自分自身の価値を銀貨30枚と見積もったということである。なぜなら、イエスというお方の存在価値を銀貨30枚とユダが見積もる根底には、自分自身の存在価値が潜んでいるからである。

ユダは、イエスを信じて従ってきた。イエスに自分のすべてを委ねて従ってきた。イエスは自分よりも価値あるお方だと思うがゆえに、すべてを委ねて従ったのではないのか。ユダが価値付けた銀貨30枚が、イエスの価値であれば、ユダ自身の価値はもっと低いことになる。ユダは、イエスを引き渡すことにおいて、自らの価値を銀貨30枚以下に見積もってしまった。ユダにしてみれば、自分がすべてを賭けて従ったイエスの価値が実は低かったと思ったからであろう。自分が考えていたよりも低かったと判断したがゆえに、ユダはイエスを引き渡した。それゆえに、低かったと判断したユダは、自分の価値を同時に低くしてしまったのである。

さらに、「あなたがたのうちの一人が、わたしを引き渡す」とイエスが言ったことに対して、弟子たちが「わたしではないですよね」と応えていく際、ユダも「わたしではないですよね」と応えている。それに対して、イエスは「あなたが言った」と言う。この言葉は、ユダの嘘に対する言葉である。ユダは、自分が引き渡すことを隠して、「わたしではないですよね」と言う。自分の本心を隠して、その場を取り繕った。この取り繕いに対して、イエスは「あなたが言った」と言うのである。それは、ユダ自身の責任を問う言葉である。わたしを引き渡すあなたが「わたしではないですよね」と言ったのだ、と。イエスは、そのようにユダに彼の言葉の責任を返している。それはまた、ユダにユダの言葉、ユダの行為、ユダの判断の価値すべてを返している言葉である。ユダは自らが語る言葉の価値を引き下げてしまった。その責任は自らにある。

我々人間は、自らの価値に従って、言葉を選択している。我々の言葉が自分の品性と価値とを現してしまう。ユダの言葉も同じ。ユダの品性と価値が現れた言葉が、自らの引き渡しを隠そうとする言葉である。見破られてはいないと思い、「わたしではないですよね」とイエスに言う。イエスは、「あなたが言った」と返す。あなたが言ったとおりの価値があなたの価値だと言われているかのようである。我々の言葉は、我々自身の価値を乗せてしまう言葉だと言える。それは「存在の言葉」なのである。

人間は言葉の存在である。言葉によって、我々は自分の意志を伝える。相手の意志を受け取る。言葉の交換によって行われているのは、互いの価値の交換である。その価値が現れた言葉が、同じ価値の言葉であるならば、話は通じるであろう。しかし、価値の違う言葉であれば、話は通じない。言葉が自らの価値を乗せてしまうとすれば、イエスの価値を測るユダは、イエスを測っていると思いながら、実は自分の価値を乗せてしまっているのだ。イエスを銀貨30枚と測るユダ自身が、自分の価値を銀貨30枚として乗せている。それゆえに、祭司長たちにしてみれば、ユダは銀貨30枚の男なのである。

これがユダの悲しさであるとすれば、イエスはユダの言葉に、その悲しさを見ておられる。「あなたが言った」というイエスの言葉は、あなたがあなたの価値を言ったということである。ユダは、真実を語っていないがゆえに、ユダ自身の不実を語っている。それはユダ自身が不実であるという真実を語っている言葉なのである。

我々の言葉も、我々自身の価値を語る言葉となる。我々自身の真実の姿を現す言葉となる。言葉に、自分自身の価値が現れる。こうして、我々は隠しているつもりで、現してしまう。これが罪人の錯誤である。この錯誤に対して、イエスは「あなたが言った」と応えている。ユダの価値の哀れさを感じて、応えているイエス。このお方は、ユダに自らの言葉の価値を知って欲しいのだ。自分で語った言葉の価値が、あなた自身の価値なのだと知って欲しいのだ。ユダの認識を開こうとするイエスの言葉。それを受け止めることができないユダ。ここには、価値の相違における交換不能が生じている。交換できないほど、ずれている価値。これが、ユダとイエスの間だけではなく、イエスと人間との間に存在している価値の相違である。

ユダは、自らを隠すために語ったが、他の弟子たちは本当に分からないままに、「わたしではないですよね」と語った。ここには、自らが自信を持って「わたしではありません」と言えない弟子たちの姿が現れている。自信を持つことができないということは、人間としての根源的自己不信、自己への懐疑を示している。ユダとは反対に、他の弟子たちは自分を隠そうとはしていない。自分が分からないのである。使徒パウロも言うように、「してはならないことをしてしまう」自分が分からないのである。罪に流される自分が分からない。罪を犯さないように気をつけていても、罪を犯してしまう自分が分からない。それがユダ以外の弟子たちの言葉に現れている人間存在の自己不信である。この自己不信が実は罪の自覚だと言える。我々が罪を自覚するとき、自分が正しいことを行おうとしても、罪にながされてしまう存在なのだと認識するものである。この認識において、我々は自分自身を正しく罪人として認識していることになる。自分自身の奥底でうごめいている罪を知るがゆえに、自分がイエスを引き渡さないなどとは絶対に言えない。これが他の弟子たちの言葉の真実である。

言葉が真実を語る。如何に取り繕おうとも真実を語る。これは隠すことができない事実である。そうであれば、我々は真実を語ってしまう自分の言葉を吟味することすらできないのだ。弟子たちが語ってしまったように、我々もまた語ってしまう。ユダが語ってしまったように、隠すことができない。我々の言葉は、自らの存在の言葉なのである。

ユダが低くしてしまった自らの存在価値にも関わらず、イエスは我々の存在価値を超えて、我々のためにご自身を神に献げてくださる。イエスが、自ら引き渡されることを引き受けてくださったがゆえに、我々はイエスの価値と同じ価値に置かれる。低い真実に生きざるを得ない我々が、イエスの価値と同じ価値を付与される。これがイエスの十字架の意味である。

低次の真実が高次の真実に覆われる。イエスの十字架の真実に覆われて、我々の低き価値が高められる。フィリピの信徒への手紙2章で歌われるキリスト讃歌のとおり、イエスは我々と同じ価値にご自身を低くなさった。それゆえに、神はイエスを高く上げ給うた。我々は、神が高く上げ給うたイエスの価値を付与され、神のものとして高く上げられる。低次の存在から高次の存在へと上げられる。これは、キリストの価値に覆われること、キリストの義に覆われること。我々の価値、我々の義ではないが、我々の義として、我々の価値としてキリストが我々を包んでくださる出来事なのである。

我々は、自らの価値以上に上げられる。キリストによって上げられる。ユダもまた、そのようなキリストの義を、キリストの価値を付与される存在であった。にも関わらず、彼はキリストの価値を捨ててしまった。自らの価値も捨ててしまった。これがユダの悲しみであり、ユダの哀れさである。

我々は、ユダの姿を非難することはできない。我々もユダと同じ存在。罪深い存在。罪に支配された存在。その認識を生きるならば、我々はキリストの価値の中に入ることができるであろう。キリストの価値に包まれることが可能とされるであろう。この聖なる週を歩む我々は、キリストの真実なる価値の中に入るべく、ただキリストを見上げて進み行こう。あなたは、キリストが覆ってくださる存在。キリストの価値と一つとなるように召された存在。キリストがあなたのためにご自身を差し出してくださるほどの価値を付与されている者として、キリストに従って行こう。祈ります。

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