「完成」

2021年4月2日(聖週金曜日)
ヨハネによる福音書19章17節-30節

「完成されてしまっている」と叫んで、イエスは霊を引き渡した。イエスは「完成」を成就した。神に派遣された使命を全うした。それが十字架の「死」であると、ヨハネ福音書は語っている。通常ならば、「死」は完成とは考えられない。我々は死に際して、途上における未完を感じてしまう。我々人間が死の間際に感じるのは、「まだ、為すべきことがある」という未達成感。残していく家族への未練。それはまた、残された家族の死者に対する未練をも促す。「もっと、こうしてあげればよかった」と思わせる。こうして、我々人間の死は、大抵の場合に「未練」、「未完」、「未達成」を感じさせるものである。ところが、イエスはご自身の死に途上性も未完も感じることなく、「完成されてしまっている」とおっしゃる。どうして、イエスはこのように叫ぶことができるのか。それは、イエスの言葉の受動態が示す神の神秘、神の秘儀に関わる事柄である。

イエスもまた、我々と同じように「未練」を感じているのだろうか。ご自身が残していく母と弟子を結びつけるイエスは、息子を失う母を思っていたであろう。その母に息子として弟子を与える。弟子にも母を与える。こうして、両者が十字架の下で一つとされた。そして、イエスは「渇く」とおっしゃる。「渇く」とは、すべてを注ぎ出したあとの感覚。イエスはすべてを注ぎ出して、完成を確認した。イエスの注ぎ出しが完成をもたらした。イエスは、すべてを注ぎ出し、与え尽くしたことを確認して、「完成されてしまっている」と叫んだ。

イエスは「完成」を生きている。イエスの死によってすべてが完成した。これが、ヨハネ福音書が語っていること。完成の向こうから、イエスは語りかけておられる。イエスが母に弟子を、弟子に母を与えたことは、イエスが新しい関係を創出することを意味している。これは、母と一人の弟子の関係に限定されているのではない。それゆえに、イエスは「完成されてしまっている」と言うのだ。それは、神の御業の神秘、神の秘儀を表す言葉である。受動態であるがゆえに、イエスが創出するというよりも神が創出する出来事を表している。それが真実に「完成」なのである。従って、ヨハネ福音書において語っているイエスは、「完成」から語っている。完成した世界において語っている。完成に向けて、読者を導きながら、完成から語っている。なぜなら、完成したところからしか、完成へ向けて語ることはできないからである。

完成した「完成されてしまっている」世界を見て、イエスは満足なさったのであろうか。頭を垂れて、ご自身の霊を引き渡したと記されている。誰に。神に。イエスはご自身の霊を神に引き渡した。神ご自身のものである霊を引き渡した。つまり、お返ししたということであろうか。我々人間の場合はそうである。しかし、イエスは神である。神と共にあったロゴスであるとヨハネ福音書は劈頭で語っていた。そうであれば、イエスはご自身にご自身の霊を引き渡したのだろうか。イエスは神であるロゴスであるが、神と共にあったロゴスである。神とロゴスとが一つでありつつ、別々にある。神はロゴスを発するお方。ロゴスを派遣するお方。同時に、ロゴスは発するお方自身でもある。そのような意味では、ロゴスであるイエスは、ご自身の霊を神に引き渡すのである。ロゴスであるということは、単に言葉であるだけではなく、出来事を起こす言葉である。言語ではなく、言語のイデアである。ロゴスのイデア性をイエスは持っている。ロゴスのイデア性は、昨日の日課である13章において、イエスが弟子たちに与えた「型」ヒュポデイグマとして語られていた。「型」はイデア性としての輪郭である。この輪郭の中に入るとき、我々はロゴスのイデアによって形作られていく。ロゴスのイデアである型が我々を形作る。それは、十字架の上で母と弟子を新しい家族としたことにも現れている。イエスの言葉ロゴスに従って、新しい家族が創出された。この創出はイエスの言葉ロゴスが創り出すこと。「女よ、見よ、あなたの息子。」と母に言い、「見よ、あなたの母」と弟子に言う。この言葉が新しい家族を創出した。イエスの言葉が創出した。この創出において、イエスのロゴスはイデア的に働いている。

イデアとは、プラトン哲学の重要な用語である。ジョルジョ・アガンベンはこのイデアについてこのように説明している。円と言われれば、我々は円を認識する。円は、どこにでも認識できる。大きさも太さも違う円を我々がすべて「円」として認識するということにおいて、「円」のイデアを認識しているのである。従って、イエスのロゴスが語った「母」と「息子」というイデアは、母に弟子を「息子」として認識させ、弟子にマリアを「母」として認識させたのである。そこにおいて、イエスは神であり、神と共にあるロゴスとして働いておられる。このロゴスの力が新しい世界を創出したのは、イエスの死に際してである。十字架の出来事においてである。従って、イエスは神であり、神と共にあるロゴスとして十字架の上で死を死んだ。死を死ぬということにおいて、ロゴスとしてのイデア性を働かせている。それがイエスによって来たった「完成」であり、神が完成してしまっていることである。

イエスの死がロゴスのイデア性を活性化させたのか。いや、イエスは最初からロゴスであり、イデア性を働かせていた。このイエスの言葉が、弟子たちを発見し、照らし、弟子たちの相互愛を創出した。我々のちの時代の者たちも、同じ相互愛に生きる者として創出されている。そこにおいて、イエスのロゴスはイデアとして働いている。従って、イエスの言葉は今までにないものを創出する言葉ロゴスなのである。ヨハネ福音書1章3節においてもこう言われている。「すべてのものたちは、彼によって、生じた。また、彼無しで生じなかった、何一つとして、生じたものは」と。イエスは創造のロゴスであり、すべてのものを創造したお方である。そのお方が、父によって地上に派遣され、肉として生じた。このお方の死は、肉としての死。しかし、肉としての死を通して、新しい世界を創出する。それが十字架の栄光である。

ヨハネ福音書においては、十字架は栄光であり、神を栄化する出来事である。この出来事を我々は知らず、滅びと未完の挫折だと思ってしまう。弟子たちも女たちもそうだった。ところが、この出来事は挫折ではなく、完成だとイエスは十字架の上で叫んだ。完成を叫んだイエスによって、すべてが新たに創造された。世界が創造された。新しい世界の創出が十字架によって生じた。これがイエスの「完成されてしまっている」との叫びの意味である。

そうであれば、イエスの死は悲しみではなく、喜びではないのか。挫折ではなく、栄光なのだから。しかし、この栄光が何によって生じたのかが問題である。我々人間が原罪によって汚してしまった世界を新たに創造するためのイエスの死なのだから、我々の原罪が問題なのだ。原罪が浄められるために、イエスは十字架の死を栄光として引き受け給うた。原罪を抱えて生きている我々人間の問題解決のために、神は独り子を与え給うた。それが十字架である。そうであれば、我々は十字架が栄光だと喜んでいて良いのか。我々の罪のゆえに、死を引き受け給うたお方が叫ぶ「完成されてしまっている」という言明を、我々はどう聞くべきなのか。我々人間に不可能であった原罪からの浄めを成し遂げ給うたお方の死は、我々の罪のためであったと知らなければならない。大切な独り子を与え給うた父なる神の苦しみがイエスの十字架に秘められているとすれば、この神の秘儀を喜ぶだけで良いのか。我々は、改めて、神の秘儀の悲しみを受け止めなければならない。

御子イエスが十字架の死を引き受け給うた意味を改めて受け止めなければならない。これほどの犠牲を払ってまで、我々を愛し尽くしてくださった父なる神と独り子イエス・キリストの愛に促されて、我々一人ひとりが悔い改めて歩み出すべきなのだ。完成されてしまっている新しい世界を生きる者が、常に悔い改めの生を生きることによって、イエスの十字架の栄光の中を生きることが可能とされる。あなたはこの秘儀の中に入れられている。悔い改めて歩み出そう、イエスの新しい世界へ。

祈ります。

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