「異常事態」

2021年4月4日(復活祭)
マルコによる福音書16章1節-8節

「そして、出て、逃げた、墓から。なぜなら、彼女たちを持ったから、恐れと忘我が」と記されている。さらに、「何も、誰にも、彼らは言わなかった。なぜなら、彼らは恐れ続けていたから」と続く。マルコによる福音書は、ここで終わっていたと考えられている。次週の日課である9節以降は、後に付加されたのであろうと考えられる。マルコは、福音書編集において、「何も、誰にも、言わなかった。恐れ続けていたから」で終わらせている。どうしてであろうか。女たちの恐れと忘我、我を忘れることで終わらせて、この異常事態にどうにも対処できない動揺を語っている。

イエスの体が墓にはないのだ。誰が、どこに運んだのか。また、墓の中にいた白い衣を着た若者は誰なのか。通常なら、起こり得ないことが起こっている。マルコは、それだけを記す。異常事態が生じている。これは、この世に生きている人間が、自らの判断、認識を超えた事柄に直面して、どうにも仕様がない様を表している。それが神の出来事。人間にとっては「異常事態」としか認識できず、受け入れることもできず、取り乱してしまう。何をすれば良いのか分からない。それゆえに、女たちは、「何も、誰にも、言わなかった」と言われている。イエスの復活を目撃したわけではない。復活後の空の墓を見ただけ。それでは、復活したのか、体が運び出されただけなのか、判断の仕様がない。女たちは「恐れと忘我」に捕らえられたと記されているのは当然である。

我々人間は、人間的次元において判別できることならば、冷静に対処できる。しかし、人間的次元を超えた出来事に対しては、対処できない。何をすれば良いのか分からない。我を忘れて、ただ逃げ帰った女たちの反応は、人間的には当然のことなのである。それでは、若者が弟子たちに伝えるように言ったことは、弟子たちには伝わらない。それなのに、イエスの復活を信じる者が起こされるとすれば、この信仰は人間的次元の信仰ではない。神が信じる者にしてくださるのが信仰なのである。神が信仰を起こしてくださらない限り、我々人間は異常事態を受け入れることはできない。異常事態を受け入れること。それが信仰なのだと、マルコは暗に語っている。

今まで経験したことのないことが起こる。その異常事態に対して、我々はいつ元に戻るのかと考える。いつ、普通の世界になるのかと考える。しかし、一端起こった異常事態が神の出来事であるならば、それは新しい世界を神が開いたのである。そうであれば、元に戻ることはない。異常事態を受け入れて、そこから新たな世界を生きて行かなければならない。これが、神が人間の世界に介入なさるときに人間に求められる従順な信仰なのである。その信仰さえも、人間が素直に従う者ではないがゆえに、神が起こしてくださらない限り、信仰には至らない。信仰者とは、異常事態を神の出来事として受け入れた者のことである。

従って、信仰は他者の証言によらず、ただ信じる心を起こされたという神の出来事なのである。それでも、もし、人間の証言が信仰を促すとすれば、その証言を用いて、神が働いてくださったからである。しかし、女たちは証言することなく、若者の言葉を弟子たちに伝えることがなかった。にも関わらず、復活の信仰が我々後の時代の者たちに伝えられているのである。そうすると、証言がなくとも伝わることになる。証言があっても、信じる者と信じない者に分けられるとすれば、我々人間の証言は取るに足りないものである。証言によらずとも、神が起こし給う信仰は神が起こす。もちろん、我々には聖書が与えられている。この聖書は弟子たちの証言に基づいた言葉である。その聖書を読めば、誰でも信じる者とされるかと言えば、そうではない。結局、信じる者を起こし給う神の御業を受け入れる者と受け入れない者がいるというだけである。受け入れる者は受け入れる。受け入れない者は受け入れない。それだけである。

女たちが若者の言葉を弟子たちに伝えることなく、終わってしまったとしても、福音は伝わるのである。福音を宣べ伝えるのは神だからである。そうであれば、人間は何もしなくて良いのであろうか。何故に、若者は女たちに伝えるべき言葉を与えるのであろうか。人間には何の力もない。神の言葉に従う力もない。むしろ、神の言葉に従わない力ならある。それゆえに、神の言葉、神の意志が語られなければならない。神の意志が告げられているということは、人間の不従順と妨げがあろうとも、告げられたことは実現するということである。人間の不従順が神の言葉の実現を妨げることなどできない。それがイエスの十字架が語っていることである。

イエスの十字架を起こしたのは、神が派遣したイエス・キリストを救い主と受け入れることができなかった人間である。イエスが神の言葉を語った結果、人間はその言葉を聞いて不従順を起こされてしまった。神の言葉が人間を不従順にした。こうして、イエスは十字架に架けられて、殺害された。それでもなお、神の言葉は語られているのだから、実現してしまう。それが、イエスの復活である。復活は、人間が神の言葉を拒否した十字架を超えて生じた。十字架は神の言葉が起こした人間の拒否ではあるが、人間が拒否してもなお、神の言葉は実現してしまう。イエスの復活は、神の言葉、神の意志を妨げるものは何もないことを語っている。女たちの恐れと忘我によって、何も、誰にも、語られなかったとしても、神の意志は伝わる。聞く耳を開かれた者に伝わる。それが、神の救いの意志、救いの御業、十字架と復活の出来事である。

我々はこの神の御業の前にひれ伏すしかない。我々の罪を超えて、救いを実現し給う神に感謝するしかない。我々人間が何も為し得ないところで、神はご意志を実現し給う。我々人間が、恐れと忘我に取り憑かれていても、神はご意志を実現し給う。我々人間の不従順にも関わらず、神の意志は語られ、伝えられる。イエス・キリストの十字架と復活は、神が神であることを語っている。我々の罪を超えて、我々を救い給う御業を語っている。我々が如何に罪深いとしても、神の善は我々の罪に勝利し給う。罪に勝ち給う神が生きて働いておられる。女たちの不従順にも関わらず、働いておられる神がおられる。これが我々人間の救い。我々人間の限界と未来。我々は、人間としての限界を知らなければならない。恐れるだけで、何もできない人間であることを知らなければならない。我を忘れて、自分が何をしているのか分からない人間であることを受け入れなければならない。そのとき、我々は神の前にひれ伏し、神の力を誉め讃える者とされるであろう。神の力によって、未来を生きる者とされるであろう。

目の前に生じた異常事態は神の出来事。我々の罪を自覚させ給う神の出来事。我々が超えることのできないものを超えて、神が実現し給う新しい世界が開かれている。あなたの不従順は罪の結果であるが、神の新しい世界は神の恵みの賜物。罪の結果を恵みの賜物が包む。その出来事の中で、我々はいずれ知る者とされる、神が神であることを。異常事態は、神が神であることを語る神の出来事。女たちの恐れと忘我さえも、神の出来事を妨げることはできなかった。神がすべてにおいてすべてである世界が開かれた。イエス・キリストの復活によって開かれた。我々が祝う復活は、我々の罪の現実を糾弾し、罪からの解放を宣言している。あなたは、神の御業によって解放されたと。あなたの罪にも関わらず、神はご自身の意志をあなたのうえに実現し給うたと。神の恵み深い御心が、あなたを今生かしている。イエス・キリストと共に生かしている。あなたはあなたのものではない。神のもの。神の救いに与った者。

この神の現実を我々に思い起こさせるために、イエスはご自身の体と血を与えてくださる。イエスの献げられた体と血によって、我々は神の救いの御心をいただく。神の恵みの力をいただく。我々を愛し給うお方の愛の中に包まれる。感謝して、いただこう、復活の主の体と血を。

主イエス・キリストは、復活された。

イースターおめでとうございます。

祈ります。

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