「不信仰者の派遣」

2021年4月11日(復活後第1主日)
マルコによる福音書16章9節-18節

「その人たちは、彼が生きていると、そして、彼が彼女によって見られたと聞いて、信じなかった」と記されている。さらに、二人の弟子たちについても、「その人たちは、出ていって、残りの者たちに告げたが、その人たちを彼らは信じることはなかった」と記されている。16章8節で終わっていたと思われるマルコによる福音書に9節以降を付け加えたのは誰か。後の教会の者たちである。彼らは、マルコが空の墓で終わらせていたことに付け加えた。何故か。しかも、「信じなかった」、「信じることはなかった」と二度も記している。結局、女たちが「誰にも何も言わなかった」としても、言ったとしても、同じことだったということを記したのである。信じるということは、人間からは生まれないことを記した。人間から信じる者になることはない。神から、イエスから信じる者にされるということを記した。これは、教会の歴史の中で確証されてきた信仰の奥義である。後の教会の者たちが、自らの信仰に従って、書き加えたのは、信じるという出来事の起源は神とイエスにあると伝えるためである。さらに、神とイエスは、不信仰者を派遣すると伝えるためである。

我々キリスト者は、不信仰にも関わらず、神によって、イエスによって、信じる者とされた存在なのである。それゆえに、自らの信仰を誇ることはできない。また、我々が派遣されたとしても、信仰深く、神とイエスに忠実であるから派遣されるわけでもない。マルコの最後に記されているように、不信仰者をイエスは派遣するのである。すべての者が不信仰であるから、信仰深くなるまで待つことはできないであろうから。さらに、不信仰者であろうとも、派遣されて、宣べ伝えるうちに信仰者として形作られて行くということである。

我々人間は基本的に不信仰なのである。その不信仰者を選び、派遣することによって、その人が信仰の従順へと導かれるために、神とイエスは派遣する。宣教の困難さの中で、呻吟し、神に祈り求める者とされることで、その人の信仰は深められていく。我々が派遣されるに相応しい者だから派遣されるのではない。相応しからざる者を派遣する神とイエス。それは、我々の罪の赦しにも言える論理である。

我々は罪赦されるに相応しいから赦されているのではない。相応しくないにも関わらず、罪赦されている。罪の赦しの中で生きるうちに、罪の赦しが自らの力ではなく、神の憐れみによって与えられていることを知るのである。神の憐れみがなければ、我々は罪赦されてはいない。神の憐れみによって、救われた。神の憐れみによって、赦された。神の憐れみによって、信じる者とされていく。我々が、これほどに不信仰であってもなお、イエスは我々をはぐくみ、信仰者として立たせようとしてくださっている。この事実を伝えるために、マルコの教会の者たちが後に記したとすれば、それは教会が聞いたイエスの言葉、神の言葉。人間的次元を超えた言葉である。

そのような意味では、イエスが語る信じる者に伴う「しるし」もまた、荒唐無稽な出来事ではない。マルコの教会の者たちが実際に体験している出来事である。信じる者は強い。なぜなら、自分の力ではないからである。不信仰者なのに、信じるということは、自分の信じる力ではないということである。マルコは、このような信仰を語っている。9章24節では、汚れた霊に取り憑かれた息子の父が言う。「信じています。わたしの不信仰に助けを。」と。ここでも、不信仰に助けをいただいて、信じていることが生じると述べられている。マルコの教会は、この信仰を伝えるために、9節以降を書き加えた。自分の力ではない信仰なのだから、自分では不可能だと思えることも可能とされる。そこには、神の力、神の守りが如実に現れている。それが神による信仰なのである。しかし、その神の力を試そうとするならば、途端に罪に陥る。そして、約束されたことも失ってしまう。それゆえに、我々は謙虚に、神を試すことなく、ただ信じ従う者でありたい。

イエスは、弟子たちの不信仰と頑なな心を咎めながら、彼らを派遣する。イエスの派遣命令にこそ、力がある。派遣するイエスにこそ力がある。この事実を忘れてはならない。あなたに力が無くとも、イエスは派遣する。あなたが不信仰であろうとも、あなたに命じる。なぜなら、神の意志は命令として語られるからである。神の意志は変わることがないからである。神の意志は、不信仰者には語られないということはないからである。神の意志は、相手を見て変わるような意志ではない。神の意志は、永遠から永遠まで、変わることがない。すべての者が、不信仰者なのだから、信じる者にしか語らないとすれば、神は語る相手を失ってしまう。信じる者が一人もいないとしても、神の意志は語られる。語られた神の言葉によって、信仰を起こされる者と、起こされない者が分けられてしまう。これが選びである。

我々人間は、出発点は同じであっても、到達点は違う。神の言葉の前にひれ伏す者は信じる者とされるであろう、先の父親のように。ひれ伏さない者は信じる者とされることはない。ひれ伏すということは、自らの力を放棄して、神の力にすべてを投げ出すことだからである。すべてを投げ出すのは、自らの不信仰を認めたときである。不信仰であるがゆえに、もはや自分の力では何も為し得ないとひれ伏す。神さま、あなたは義しい、しかし、わたしは不義であると自らを投げ出す。そこにおいて、我々は神の助けを求める祈りへと導かれている。

また、イエスがおっしゃるのだからと、耳を傾ける者も同じく、自らを投げ出している。イエスは信頼できるお方と思う心には、自らが信頼できない存在であることが受け入れられている。それゆえに、イエスへの信頼に生きるように導かれる。これが信仰の事実である。あなたは不信仰で罪深い。他者を傷つけてしまう人間的な存在。自分のもとにすべてを引き寄せようとしてしまう人間的関係を作ろうとしてしまう存在。自己中心的で、他者を見下している存在。神さえも、自分のために使ってしまうほどの罪人。そのような存在であろうとも、神はあなたを愛しておられる。あなたに、ご自身の意志を語り、ご自身の意志に従うようにと招いておられる。神の許にこそ、真実の平安があると迎える手を広げておられる。わたしのうちに憩いなさいと、戸を開いてくださっている。イエスによる不信仰者派遣の命令も、同じ神の憐れみ。神があなたをはぐくんでくださる御業。あなたが宣べ伝えるべきは、自分の力ではない。自分の素晴らしさではない。自分の栄光ではない。神の力、神の素晴らしさ、神の栄光を宣べ伝える。神こそ、わたしの救いと宣べ伝える。神がわたしの希望であると宣べ伝える。罪深く、傲慢なわたしを愛して、イエス・キリストを十字架に引き渡してくださったお方が、わたしの主、わたしの神と宣べ伝える。そこにおいて、我々は神のものとして生きることができる。謙虚に、イエスに信頼し、イエスの御力に頼って生きる。これがキリスト者。これがマルコの教会が伝えている不信仰者の派遣の意味。

信じなかった者たちのために、わざわざご自身を現し、ご自身の意志を語りかけてくださるイエス。このお方がおられるがゆえに、我々は常に悔い改めて、歩み出すことができる。新たに生きることができる。主のご復活は、我々罪人を新しく創造し給う神の出来事の始まり。死者たちの中から、最初に起こされたイエスが、我々のいのちの始まり。我々の新たな世界の始まり。人間の再創造の根拠。

我々は、イエスによって、新しい舌を与えられていると述べられている。新しい言葉とは、新しい舌。新しい言語。それは地上的言語ではなく、天上的言語であり、神の事柄を語る言語。この言語によって、我々には新しい世界、神の世界が認識される。神の言語を与えられた者は、神の意志を素直に受け入れ従い、神の言語の世界を生きる者とされる。不信仰者であろうとも、神の言語を語るならば、信じる者として形作られて行く。神の言語が、我々を信じる者にする力の言語。神の力が宿った神の言語を語りつつ、神に従う信仰を深められて生きて行く。神はあなたをご自身のものとしてくださる。

祈ります。

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