「信仰の従順」

2021年4月18日(復活後第2主日)
ヨハネによる福音書21章1節-14節

「あなたがたは投げなさい、舟の右側の部分へ、網を。そして、あなたがたは見出すであろう」とイエスは言う。「見出す」ということは、今までそこにありながら見失っていたものを見出すことである。あるのに見えない。それは、我々の目が曇っているからである。我々の目は、自分が見たいものしか見ない。自分が見たくないものは見ない。しかし、また我々の先入見、「ここにはあるはずがない」という思いが、あるものをあると認めないように働く。これらは我らの罪のなせる業。我々の罪は、我々の目を曇らせ、自分がすでに知っている世界しか見せない。いや、何事もすでに知っているなどということはない。それゆえに、誰でもすべてのものを初めて見るのである。

幼子たちは、すべてのものを初めて見て、認める。初めて見るとき、彼らはありのままに見る。しかし、大人たちが「そんなことは見なくて良い」とありのままに蓋をする。こうして、見なくて良いものがあるとこどもたちは刷り込まれていく。見たくないもの、自分のためにならないもの、自分の責任を糾弾するものは、見ないように刷り込まれていく。こうして、我々大人がこどもたちのありのままの目を閉じていく。彼らのうちに宿っている原罪を目覚めさせる。受け継がれた原罪が働き始めると、あるものをあるとは見ることができなくなる。これが、我々人間の罪の姿。罪の継承。罪の活性化である。

イエスの復活に出会った弟子たち。イエスご自身が見せてくださった復活のいのちを見出したはずなのに、すぐに見失ってしまった弟子たち。彼らは、派遣されたはずなのに、ガリラヤへ戻ると何をして良いのか分からず、漁をするとペトロは言う。彼らは、既知のものによって生きようとする。すでに知っている漁で、元々そこから抜け出したはずの過去によって、自分を取り戻そうとする。これも罪の働き。未来を開いていただいたはずなのに、過去によって自己確認、自己肯定を得ようとする。イエスの復活によって、彼らは肯定され、あなたはあなたなのだと確認されているのに、再び自分が確認する世界に戻ってしまう。イエスの復活の出来事によって開かれた新しい世界にも関わらず、自分で自分を再び閉じ込めてしまう。これが彼らのうちになお残っている原罪の働きである。イエスは、このような彼らを今一度、新しい世界へと送り出すために、三度目に現れてくださった。

イエスは、彼らには見知らぬ男としか見えない。閉じられた世界に戻ってしまった彼らには見知らぬ男でなければならない。見知らぬことこそ、新たに発見する存在を示すからである。その見知らぬ男が彼らに問う。「子らよ、何か、付け合わせの小魚を、あなたがたは持っているか」と。「付け合わせの小魚」とはパンと一緒に食べる小魚のことである。小魚があれば、食卓が完成する。そのための付け合わせの小魚をイエスは弟子たちに求める。彼らは「いいえ」と答える。一晩中漁をしながらも、何も獲れなかった。彼らの目が閉じられていたからである。漁師に戻っても何もできない弟子たち。その彼らに、見知らぬ男は言う、「あなたがたは投げなさい、舟の右側の部分へ、網を。そして、あなたがたは見出すであろう」と。彼らが現在為すべきことと、彼らが至る未来を語る。弟子たちは、現在為すべきことを受け入れ、網を投げる。そして、彼らは引き上げられないほど網いっぱいになった魚を見出す。それを見て、イエスが愛していた弟子が言う。「あの主が存在している」。弟子たちは、ようやく、イエスを認識した。いや、発見した。

弟子たちがイエスを発見した。すでに生きておられ、あってあるお方をようやく見出した。彼らの閉じていた目、閉じていた認識が開かれた。それは、彼らが見知らぬ男の言う通りに網を投げたからである。どうして、見知らぬ男の言うことを聞いたのか。なぜかは分からないが、彼らは言うことを聞いた。これが信仰の従順である。彼らが言うことを聞くことによって、開かれた信仰の世界である。それゆえに、見知らぬ男だと思っていたイエスが、あのイエスだと認識した。この世界に生きて働いておられるイエスだと認識した。自分たちの閉じていた目を開き給うたお方を認識した。これが復活顕現である。復活の姿を見るということは、我々人間から発するのではない。神から、イエスから発する。主体は向こうである。我々の主体が無効化されるとき、我々はありのままの世界を見出す。我々はありのあまの自分を見出す。原罪によって閉じてしまっていた世界を見出す。イエスは、弟子たちの日常に現れ、日常を信仰の世界へと開いてくださる。彼らにとって、日常は既存の日常ではなくなる。イエスが働いておられる日常になる。

復活顕現が二度も起こっていながら、彼らが新たな日常に開かれていなかったのは、どうしてなのか。それは原罪によって引き戻されたからである。元の世界に引き戻されたからである。元の自分たちの世界に引き戻された彼らを、イエスがご自身の世界へと引き戻す。これが今日語られていることである。

復活の世界は非日常ではない。日常の中に存在しているあってある世界。日常が実は神の世界。日常がいのちの世界。新しいものを発見する世界。発見する世界は、我々の前に広がっている。なぜなら、神の御業は、我々にはいまだ発見されてしまってはいないからである。我々人間は神の世界の一部を見ているに過ぎない。神の世界を自分たちの既存の価値観による先入見によって我々が閉じている。その世界の扉を開き給うのは神。迎え給うのはイエス。神とイエスと聖霊の働きによって、我々は信仰の世界、従順の世界へと入れられていく。復活顕現は、神の世界を開くイエスの招き。この招きによって、我々は神の世界に入ったはず。それなのに、未だに、罪の中に留まっている。自分が知っている元の世界に戻ろうとする。神は新しい世界を見るようにと開いてくださったのに。元に戻ることばかりを考えている。今まで知らなかった、見ようとしなかった世界を開かれたのに、元に戻ろうとする。荒野をさすらったイスラエルの民が恋しがったエジプトの肉鍋と同じこと。あるようにある世界は、我々の前に広がっている。新しい世界に置かれたのだから、置かれたように生きていくべきである。置かれたように生きる。これも信仰の従順である。その世界において、我々は発見していくのだ。ありのままの世界を発見していくのだ。神が導き給う世界を歩いて行くのだ。

弟子たちは、舟から岸へと上がり、イエスが備え給うた食卓に与る。我々キリスト者の生は、このようである。イエスが、神が備え給うた食卓に与るように生きて行くこと。我々が発見したものを加えてくださって、食卓は完成する。我々が発見するものは付け合わせの魚。主イエスの食卓に与るために、発見させてくださったものを加えてくださるのも主イエス。このお方の食卓こそ、我々の信仰の従順を求める食卓。主に従う者は、主イエスの主体の中で、食卓に与る。食卓の主はイエス。我々は招かれた者。素直に従い行く者は、主の食卓に与ることになる。我々の日常の中で、主の備え給うた食卓に与る。日常は、もはや既存の日常ではない。主が働き生み出してくださる日常。我らをはぐくみ給う日常。我らを新しい世界へと導き給う日常。我らをありのままの世界に生かしてくださる日常。

イエスは、今日、弟子たちに日常の中に生きる信仰を起こして下さった。信仰の従順を与えてくださった。弟子たちが生きる未来は、ありのままにあるものをあると認める世界へと変革される。あるべきものがある世界へと変えられていく。復活の世界は、あなたを受け入れてくださる神の世界。復活の世界はあなたの日常を新たにしてくださる神の御業の世界。この世界の中で、再び原罪に支配されることがないようにと、主は食卓を備えてくださった。ご自身の体と血によって、我々をはぐくみ、新しい世界を生きる力、信仰の従順を与えてくださる。感謝していただこう、主イエスの愛の食べ物、愛の飲み物を。この食卓を通して、主はあなたのうちに生きて働いてくださる。

祈ります。

Comments are closed.