「意志を越えて」

2012年4月25日(復活後第3主日)
ヨハネによる福音書21章15節-19節

「しかし、年を取ったとき、あなたは伸ばすであろう、あなたの手を。そして、他の人があなたに帯を締めるであろう。そして、彼は連れて行くであろう、あなたが意志していないところへ」とイエスはペトロに言う。これがペトロの死を予見していると、福音書記者ヨハネは語っている。ペトロが死を通して、神を栄化する姿はこのようであると言う。もちろん、ここで語られている言葉は当時のことわざを使ったものではないかとも言われている。老人になると自分一人では歩くことが困難になってくるがゆえに、他の人に手を引いてもらう必要がある。その姿をなぞるように、ペトロの死は「他の人に帯を締められて」、「連れて行かれる」最後だと言う。これが神を栄化することだとも言う。どうしてなのか。そこには我々人間の自己意志を越えた姿があるからである。これこそが究極的には信仰者の姿。意志を越えて生きる姿である。

若い頃は、自分の意志で決定し、自分の道を歩いて行くことを求める。それこそが自己実現だと考える。自己決定権は人間の尊厳に関わることだと教えられる。もちろん、自己決定権を剥奪された存在は、人間としての尊厳を奪われてしまうであろう。誰も、他者の自己決定権を奪ってはならない。緊急事態には、戒厳令が敷かれ、自己決定権が剥奪されるものである。これは、あくまで緊急事態にのみ許されることであって、緊急事態を抜け出したときには、原状に復帰させなければならない。通常の人間関係においては、自己決定権を剥奪することは罪である。しかし、年を取ることによって、決定すること、責任を負うことが困難になってくる。こうして、家族が代理を任されることになる。この姿が、ことわざとして流布されていた。イエスは、そのことわざに倣って、神に従う道を語っておられる。これは、イエスご自身にも言えることであった。

イエスも、他の人が帯を締めて、引っ張っていった、十字架の下へ。イエスの意志を無視して、十字架に架けた。イエスは、人間的な自己決定権剥奪の行為を、神がご意志に従って行っておられると信じ、神に従った。十字架は神のご意志であり、イエスの意志ではない。まして、人間の意志でもない。人間は、イエスを十字架に架けることによって、自分たちの意志を行使しやすくしようとした。イエスは、神の意志に従うことによって、神の意志が行使されるようにと、すべてを引き受けた。このイエスご自身の神への従順に従って、イエスはペトロに言う。「しかし、年を取ったとき、あなたは伸ばすであろう、あなたの手を。そして、他の人があなたに帯を締めるであろう。そして、彼は連れて行くであろう、あなたが意志していないところへ」と。イエスご自身が従った神の意志に従って、ペトロは「意志していないところへ」連れて行かれる。これが神を栄化することである。そして、信仰の従順なのである。

我々人間は、神の意志を無視し、神の自己決定権を剥奪し、自分たちが決定権を持つようにと願った。それが原罪である。我々人間の自己決定権は、神の意志を無視することに極まっている。神から自己決定権を奪うことが、原罪の本質である。それゆえに、我々人間の間でも、他者の自己決定権の剥奪が生じる。誰かを自分の下に置くことによって、それが生じる。しかし、キリストの許ではこのようなことが生じないようにと、イエスは互いを愛することを命じた。互いの中に存在している神の愛を持つようにと勧めた。それは、神だけが決定権を持っておられることを認め合うこと。神の意志への従順こそが、我々が原罪から抜け出す道。原罪の縛りから解かれる道。それなのに、我々人間は抜け出せない。自分で抜け出そうとしてしまうからである。

抜け出すことも、自分の意志を越えている事柄。神が主導し給う事柄。それゆえに、我々はただ引き受けるしかない。ただ受け入れるしかない。そのようになるためには、若さは無力である。むしろ、老いこそが受け入れの力を宿している。老いることは、力が無くなることではない。力を行使したいと願う自分を捨てていく過程である。もちろん、捨てざるを得ないのではあるが、捨てることも必要なのだと受け入れるに至ること。それが真実に老いることである。若さや力とは反対に、神の意志に従う力は老いと無力さの実感である。ペトロがその死を通して、他の人に連れて行かれる自分の意志を越えたところ。その場所こそが、神が与えようとしておられる場所。神のご意志の場所。神の意志によって供えられた場所。この場所へと我々を導き給うのも、他者ではない。神である。

神は、他者を用いて、我々を導き給う。他者によるわたしの自己決定権剥奪であろうとも、そこに神の意志を見る存在は神の意志に従う。それゆえに、イエスは別の福音書においてこうおっしゃっている。「悪しき者に対抗するな。むしろ、誰かがあなたの右の頬を打つなら、その人に他の頬も向けなさい」と。このように生きることを求めたイエスが、ペトロの死の姿を予見しながら言う言葉は、イエスに従う信仰の姿を述べておられる。我々信仰者は、他者のものを奪うのではなく、奪われてもなお、差し出す存在。奪う者の哀れさ、罪深さを思いやりながら、差し出す。奪うことの愚かさから抜け出すように祈りながら、与える。そのようにしか自分を守ることができない哀れさを思って、神に祈る。もちろん、奪う者は、自分を哀れだとは思ってもいない。自分に力があるからこそ、剥奪しても良いのだと思っている。自分自身では抜け出せない。自分自身では認められない。自分自身では神に従えない。それが罪人であることを、我々自身も知っているのだ。それゆえに、ペトロの死の姿もペトロ自身からは生まれない。老人の姿のように、他者の導きに従うことは、あくまで神の意志に従うところからしか生じない。これが我々の罪深さであり、罪からの解放は神の救いの業なのである。

ペトロは、我々罪人を代表している。我々に先立って、イエスに招かれ、イエスの言葉によって導かれたペトロ。彼に語るイエスの言葉は、我々の信仰の歩みを語っている。我々は、老いた者として、他者の導きを受けなければならない。自分の意志を越えて、イエスに従わなければならない。自分の意志を越えたところにある神の意志を認めなければならない。そこにおいてこそ、我々は信仰者、キリスト者として生きることが可能とされる。それさえも我々の力ではない。神の力。神の配在。神の意志の絶対的必然性。我々が越えることができない自己意志を、越えさせてくださるのは神の意志の絶対的必然である。ペトロに語られる死の姿は、神の意志の絶対的必然を語っている。ペトロは、イエスが語った言葉から逃れることはできない。イエスが語られたがゆえに、ペトロが聞いたがゆえに、逃れることはできない。ペトロは、死のときに、イエスの言葉を思い起こす。確かに、主がおっしゃったとおりに導かれたと思い起こす。思い起こすイエスの言葉によって、ペトロは神の栄光を讃えるであろう。そのとき、ペトロの死は幸いな死となっていく。神を栄化する死となっていく。

イエスがペトロに語った言葉は、死に際して彼に幸いを与える言葉。イエスの愛の言葉。ペトロが自分の意志を越えるに至る未来を予見するイエス。その愛の中で、ペトロは神を讃美するであろう。その死が自分の願わない死の姿であろうとも、ペトロは神を讃美するであろう。もはや、ペトロを神の愛から引き離すものは存在しない。ペトロはイエスの言葉と一つとされ、イエスの言葉ロゴスがペトロを生かしている。この幸いを生きるようにと、イエスはペトロに言葉を与える。イエスの語りかけこそが、信仰を起こし、受け入れさせ、従わせる言葉。

我々キリスト者は、如何なる死においても、幸いな死を迎える。神の意志に従って死ぬ死を迎える。イエスの言葉に従って、死を受け入れ、神を讃美する。この讃美において、神の栄光が輝くであろう。あなたの死も神の栄光。あなたの人生のすべてが神の栄光を輝かせる道。神の栄光へと至る道を歩み行く者に、幸いあれ。あなたは神のもの。神の愛する存在。あなたの上に、イエスの言葉が実現する、あなたの意志を越えて。

祈ります。

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