「相互内在」

2021年5月2日(復活後第4主日)
ヨハネによる福音書15章1節-10節

「わたしのうちに留まり、わたしもまたその人のうちに留まる者、そのような人は多くの実をもたらしている」とイエスは言う。「その結果、多くの実をあなたがたがもたらして、わたしの弟子たちとして生じる」と言い、「このことにおいて、わたしの父は栄化されるであろう」とも言う。イエスのうちに「留まる」ことが、ぶどうの木そのものと枝との関係として語られている。どこまでが木でどこからが枝かは分けられない。木の幹から枝が生える。幹と枝は相互内在しながら、一つのぶどうの木を形作っている。しかし、枯れる枝もある。枯れる枝は枯れた時点で切り取られる。枯れたとき、枝は枝であることが分かる。枝と幹の継ぎ目が見える。しかし、生きているときには、継ぎ目は分からない。幹と枝は互いに一つになっているからである。これが、イエスが言う「相互内在」である。

枝が幹に留まるのか、幹が枝に留まるのか分けることはできない。互いに互いのうちに留まることによって、幹と枝は一つとなっている。幹から枝が生えているが、幹が枝となっているように見える。分けることができないということは一体だということである。この一体性は、相互に「留まる」ことによって成立している。これがイエスと我々キリスト者との関係だとイエスは言うのである。

我々はキリストという幹がなければ生きていない。それゆえに、すべてをキリストに依存している。キリストから栄養を供給されている。キリストは、すべてのキリスト者に栄養としてのみことばを供給している。供給するキリストは変わりなく、父のぶどう園の土地に根を張り、留まっている。キリストも父から栄養を供給され、受け取った栄養を枝に供給する。父なる神のぶどう園はそのようにして営まれている。父は、枯れた枝、実をもたらさない枝を剪定する。他の枝がより良い実をもたらすようにと剪定する。枯れた枝は、罪に浸食された枝。自分で実を結ぼうとする枝。それゆえに、自分の力が尽きるとき、何ももたらさないものとなる。いや、自分の力で実をもたらそうとするとき、その実は他者にもたらされることはない。自分のために実を結ぶだけ。それゆえに、次第に枯れていく。他者のために実をもたらすとき、活き活きと実をもたらす。その枝は実った実を自らのものとして留めない。これが、イエスが求めているキリスト者の生き方、キリスト者としての在り方。この在り方を離れる者は、キリストというぶどうの木の枝ではない。自分のぶどうの木を作ろうとしている。自分では他者に実をもたらすことはできないのに、実を結ぼうと躍起になる。自分の栄光のために、実を結ぼうとする。そのような人は、父を栄化することはない。父なる神に栄光を帰することはない。神を讃美することもない。ただ、自分を誇るだけ。そして、次第に枯れていく。父に切り取られ、火に投げ込まれて、焼かれる。少しでも何かの役に立つように。

我々キリスト者は、ぶどうの木の枝。あくまでぶどうの木が実をもたらすように働いてくださる。枝自体は何の力もない。ぶどうの木そのものに力がある。ぶどう園の土そのものに力がある。ぶどう園そのものに父なる神の力が宿っている。ぶどう園に植えられた木から生えている枝は取るに足りない存在。にも関わらず、父は一つひとつの枝を手入れしてくださる。枝がより良く実をもたらすようにと手入れしてくださる。虫がつけば、取り除いてくださる。手入れして、清くしてくださるのは神。我々自身は自分を清くすることはできない。父が清くしてくださる。

我々は枝に過ぎない。枝がぶどうの木やぶどう園の主人に優っていると自負するとき、それは枝ではなくなっている。自分がぶどう園の主人になろうとしている。それが我々人間の罪である。アダムとエヴァも神のようになろうとして、罪に堕ちた。罪に堕ちた我々人間を造り替えようと、神は人間に土を耕す働きを与えた。実をもたらすということが如何なることかを学ばせるために。自分自身がそこから取られた土を耕して、植物を育成しているのが誰なのかを知るようにと、労働を課した神。ところが、人間はその労働さえも、自らの成果として誇る愚かさに陥った。競い合い、自分がすべてを支配したいと欲望した。それが我々人間の世界。我々人間の愚かさがもたらした世界。この世界は疲弊している。我々の罪が広がったがゆえに、疲弊している。すべての存在が、疲れ、迷っている。どこに平安を見出せば良いのか分からずに生きている。

このような世界に、神は独り息子を派遣した。ぶどうの木として派遣した。ぶどうの木に留まる枝として人間が生きることを願われた。「わたしのうちに留まり、わたしもまたその人のうちに留まる者、そのような人は多くの実をもたらしている」とイエスが言うのは、救われた者の真実である。多くの実をもたらしている存在は、イエスのうちに留まり、イエスもその人のうちに留まっている存在。それがキリスト者だと言う。しかし、我々キリスト者もまた、世の人と同じように、自分で実を結び、自分の実を誇るではないか。他者の実を蔑んで、自分の実の方が素晴らしいと誇るではないか。どうしてなのか。我々がキリストの枝として生じていても、いまだ完全に相互内在に至っていないからである。この世に片足を付けて、キリストにも片足だけで留まっているからである。片足が両足になるのはいつの日か。いつになれば、我々は全面的にキリストのうちに留まることができるのか。それには時間がかかる。我々がキリストというぶどうの木に接ぎ木されたとすれば、互いの組織同士が一つになるまでには時間がかかる。いずれ一つになるが、それは終わりの日に他ならない。それまでは、父が我々を清める働きは継続されていく。それが、我々が礼拝に与るということである。

キリストの説教によって、我々は礼拝ごとに清められる。キリストと一つとされるまで、我々は礼拝において、キリストの言葉を聴き続ける。聴き続ける者は、自覚はなくとも清められている。キリストの言葉には力がある。我々を清め、造り替える力がある。この力に包まれることが、礼拝に与ることである。キリストの言葉に与ることによって、我々は清くされ、キリストの枝として、キリストとの相互内在を自らのものとしていく。あなたのうちに、キリストが入り、キリストのうちにあなたが入る。一つとなるまで、互いに浸食していく。相互内在が実現するその日まで、父なる神の手入れは継続されていく。

我々は地上にあって、キリストとの相互内在を生きるようにと召された者たち。キリストが招き、集められた存在。キリストの枝として接ぎ木された存在。悪しき木の枝であった我々が、良きぶどうの木に接ぎ木された。それゆえに、幹と枝の組織同士が一体化するまでは、早まって実を結ぼうとしない方が良い。一つとされていれば、必然的に実はもたらされる。ぶどうの木そのものが実をもたらすようにと栄養を供給してくださるからである。そのときまで、我々はただぶどうの枝に留まる。留まることに心を向ける。留まり続けるだけで、時が来れば、必然的に実をもたらすであろう。

あなたはぶどうの枝。キリストがぶどうの木。あなたは悪しき木の枝であった。悪しき実しか結び得ない枝であった。その枝を愛し、キリストに接ぎ木してくださったのは神である。良き実がもたらされるようにと留まることが、あなたに求められている。あなたに力はない。力は、キリストにある。父なる神にある。あなたは取るに足りない枝。その枝を愛して、清くしてくださるのは神。あなたの存在が、他者のために実をもたらす存在となるようにと、清めてくださる。

父なる神が設定してくださった礼拝、キリストご自身が設定された聖餐を通して、我々はキリストの枝としてはぐくまれていく。キリストの体と血は、あなたをキリストの枝としてはぐくむ養分。十分に信仰を持って受け、キリストの枝として成長していこう。あなたは、必ず、良き実をもたらす者とされていく。キリストのうちに留まるならば、キリストもあなたのうちに留まってくださる。

祈ります。

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