「必然的帰結」

2021年5月9日(復活後第5主日)
ヨハネによる福音書15章11節-17節

「わたしが選んだ、あなたがたを。そして、わたしが置いた、あなたがたを。その結果、あなたがたが出て行くために。そして、実を、あなたがたがもたらすために。そして、あなたがたの実が、残るために」とイエスは言う。弟子たちに対して、主体として働いておられるご自身を啓示する。選ぶことは、置くこと。イエスが弟子たちを置くことによって、彼らは必然的に出ていくことになる。必然的に実をもたらすことになる。そして、彼らの実は残ることになるとイエスは言う。これはあくまでイエスの主体の中で生じる必然的帰結である。この必然を生きることが信仰なのである。

信仰とは、イエスが、そして神が語られたことに従うことである。その従順は、弟子たちから生じることはないとイエスは言う。「あなたがたがわたしを選んだのではない」からだと言う。「むしろ、わたしが選んだ、あなたがたを」と。その選びは「置く」ことだとも言う。新共同訳で「任命する」と訳されている言葉は、ギリシア語でティセーミという言葉で「据える」「置く」という意味である。「制定する」や「任命する」という意味にも用いられるが、基本的には「置く」ということである。「置く」ことは、必要な場所に必要なものを、相応しい場所に相応しいものを「置く」ことである。弟子たちは、イエスによって相応しい場所に置かれた必要な存在だというわけである。イエスの「置く」行為に従うとき、イエスが置いた意味が置かれたもののうちに満たされる。イエスの喜びは彼らを置くことである。その根源には、イエスご自身が魂を置いた行為、すなわち十字架が存在している。13節で言うように「これ以上に大きな愛を誰も持っていない。誰かが彼の魂を、彼の友たちのために置くという愛を」というイエスの十字架の愛の対象。それが弟子たち、イエスの友である。イエスの弟子たちは、イエスの友とされ、イエスご自身の魂を自分のために置いていただいた存在。それが、彼らがイエスによって置かれた存在、イエスによって選ばれた存在である根拠なのである。そして、イエスの魂の上に、自らの存在の根拠を見出した者がキリスト者である。

従って、我々キリスト者はイエスが主体としてご自身の魂を置いてくださったがゆえに、存在している。イエスの主体の中で存在している。イエスの主体の中に自らを見出し、委ねている者は、イエスの意志を必然的に現すことになる。これが、イエスがおっしゃっている、必然的帰結である。これが、先にぶどうの木と枝の関係として語られていたことである。我々が置かれているのは、キリストというブドウの幹。キリストのうちに置かれ、キリストのいのちをいただき、キリストと一体となるようにと召された者がキリスト者。すべてをキリストに負っているのがキリスト者。置いてくださったキリストの主体の中で、養分をいただいて、実をもたらすようにはぐくまれる。それがキリスト者である。それゆえに、自分自身には力はないと認めているのもキリスト者。信仰による受け入れの中で、我々はキリストと一体とされていく。キリストの喜びが、わたしのうちに満たされる。キリストの喜びがわたしの喜びとなる。これがキリスト者である。

キリストの枝が、互いに愛することの根拠もキリストの愛。キリストの枝が、必然的に実をもたらす根拠もキリストの愛。キリストの愛が、我々をはぐくむ養分。この養分を十分にいただくならば、あなたは必然的に実をもたらす。自分の力ではもたらすことができないような実をもたらす。それが、あなたの未来であり、あなたの救いである。イエスは、この未来の救いへと弟子たちを置いたと言う。彼らが、イエスの羊であり、イエスの言葉を聞く耳を与えられているからである。イエスの言葉を聞く者は、神がイエスの羊とした存在。イエスの言葉を受け入れる者は、イエスの枝として置かれた存在。置かれたことを受け入れている存在。イエスが、そして神が置く行為は、受け入れられること、つまり信仰を求めている。信仰によって、置かれたことを受け入れ、置かれたように生きる者とされる。そのために、イエスはご自身を魂を神の前に置いてくださった。

我々は全面的にイエスに負ういのちをいただいている。自分のものではない、神のいのちをいただいている。本来いただいていたいのちを見失っていた我々が、キリストの十字架によって見出され、見ることができるようにしていただいた。十字架が、我々を相応しい場所に必要な存在として置いてくださった。その置かれた場所に、神のいのちがあると置いてくださった。それゆえに、我々は自らが相応しいところに置かれていることを受け入れるならば、相応しく生きることができる。その結果、実をもたらすことになる。必然的に実をもたらすことになるとイエスは言う。

神とイエスの中にこそいのちがある。我々はそのいのちを与えられている者。イエスのいのちである魂を置いていただいた者。闇に沈んでいた我々を、キリストは見出し、愛を注いでくださった。闇に隠れていた我々のために、隠れなくある神の真実を示してくださった。我々が罪の奴隷として生きていた世界に、キリストは来たり、我々を照らしてくださった。キリストの光によって、我々はもはや奴隷として生きなくとも良いと照らされた。あなたはわたしの友と、キリストは照らしてくださった。キリストの友は、キリストが呼ぶがゆえに友である。キリストが呼ぶとき、わたしは相応しくありませんなどと言ってはならない。あなたが相応しいからキリストの友なのではない。あなたが罪深い存在であるがゆえに、キリストは友となってくださる。あなたが救われ難いがゆえに、友と呼んで救ってくださる。あなたが闇に隠れるがゆえに、あなたのために魂を置いて、友と呼んでくださる。あなたは、自分の相応しさによってキリストの友なのではない。キリストが呼び給うがゆえに、キリストの友である。従って、あなたは誇ることはできない。あなたは、ただ「アーメン」と受け入れるだけ。わたしを友と呼んでくださって、ありがとうございますと応えるだけ。思い上がることなく、キリストの言葉に応える。それが、キリストが友と呼び給う声に応えること。我々はキリストの友。あなたはキリストが魂を置くほどに、愛されている者。キリストの愛の対象。ただ受け入れるならば、あなたはキリストの友である。

キリストの主体の中で、友と呼ばれる存在同士は、互いがキリストの愛の対象であることを認め合う。それが「互いに愛する」という掟である。この掟は、従わなければならない掟ではない。キリストの友として生きているならば、必然的に従い守る掟である。掟を守ったから友になるわけではない。友であるがゆえに、掟を守る。「あなたがたがわたしの掟を守るならば、あなたがたは存在している、わたしの友として」とイエスはおっしゃっている。これは友になる条件なのではない。友であるがゆえに、必然的に掟を守るということである。友として存在しているということが、必然的に互いを愛することに帰結する。そうであれば、互いを愛することがないとき、その人はイエスの友として存在することを拒否したということになる。そのような帰結に至らないために、イエスは言うのだ。「あなたがたは留まりなさい、わたしの愛のうちに」と。

イエスの愛のうちに留まるならば、必然的に互いを愛することに帰結するであろうと言う。それは、父なる神がイエスを愛し給うたように、そして、イエスが弟子たちを愛し給うたように、ちょうど同じように互いを愛することなのだと言う。イエスの愛のうちに留まる存在は、互いに愛する存在として生きている。互いに愛さなければならないのではない。必然的に互いに愛するのである。この帰結のために、イエスの愛のうちに留まり続けるならば、我々はイエスの枝としてはぐくまれていく。必然的に良き実をもたらす。イエスの愛、父の愛がすべての根源である。我々を愛し給うお方の愛こそがすべての根源。我々の力を越えた神の現実を生きるために、我々は招かれ、友とされ、実をもたらす。イエスの喜びを喜ぶ者とされている。あなたのうちに喜びを満たすお方に従って生きて行こう。あなたの主、あなたの神は善きお方である。

祈ります。

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