「未来への現在」

2021年5月16日(昇天主日)
使徒言行録1章1節-11節、ルカによる福音書24章44節-53節

「彼が天へと行くのをあなたがたが見た有様で、彼は来たるであろう」と二人の白い衣の男たちは言う。使徒言行録1章に語られているのは、未来である。その未来へと続く現在がルカによる福音書24章に記されている。「そして、彼らは彼をひれ伏し拝み、エルサレムへ引き返した、大いなる喜びと共に」と。弟子たちは、イエス殺害の場所エルサレムへと引き返したが、大いなる喜びをもって引き返したと言われている。どうしてなのか。彼らの現在は、天に昇られたイエスの約束のうちにあるからである。イエスは言う、「あなたがたは座していよ、町のうちに、いと高きところからの可能とする力にあなたがたが覆われるまで」と。座しているようにとの命令に従い、可能とする力に覆われる約束を受け取るようにとイエスは命じた。神の可能とする力に覆われることが聖霊降臨であるが、それは終末における出来事を先取りすることである。最終的には、使徒言行録が語るように、イエスは再びやって来る。そのときを先取りする出来事が聖霊降臨なのである。それは未来への現在を生きる力をいただくこと。ルカが語るように、イエスの祝福のうちに生きることが、未来への現在を生きる力となる。つまり、イエスの祝福を受け取ることが、「町のうちに、座している」ことなのである。しかも、イエス殺害の場所エルサレムのうちに「大いなる喜び」が宿っているということである。

この「大いなる喜び」を受け取るのは、イエス殺害という悲しみの場所、落胆の場所に座していることによる。「座している」ということは、何もしないことのように思えるが、力をいただく在り方が「座している」ことである。「座している」人は、確かに何もできない。何もしない。それによって、上からの力を受け入れることができる。「座している」ことは、何もしないことでありながら、上からの力をいただくように「座している」ことなのである。それは、イエスの祝福と約束のうちに「座している」ことである。静まって、自分の行為を捨てて、神から来たる力を受け入れる備え。それが「座している」ことであるならば、我々の礼拝は「座している」ことである。

安息日に、自分の仕事を離れて、神の御前に座す。これが礼拝である。自分の仕事を手放すだけではなく、神の働きに委ねる。こうして、我々は神の働きの中で祝福されていく。神の約束の中で、未来を生きることになる。我々の現在が「大いなる喜びをもって」神の御前にひれ伏す現在であるならば、我々には祝福された未来が約束されている。これが我々キリスト者の礼拝である。現在の中に、未来が宿っている。現れるべき未来が宿っている。いずれ、現れる未来へと向けて、我々の現在は喜びで満たされる。これがイエスと弟子たちの間で交わされている現在と未来との往来。この往来の中で、終末の未来が現在の中へと入り込んでくる。今、終末を生きる。これが弟子たちの現在。そして、我々キリスト者の現在なのである。

我々の現在は、終末の先取り。終末を今少し味わいつつ、終末へ向けて歩み続ける力をいただく。神は我々が終末へ向けて歩み続けることを望んでおられる。終末に至るために、今を終末のように生きることを神は望んでおられる。これが二人の白い衣の男たちが弟子たちに語った未来への現在である。この未来への現在は、イエスの祝福のうちに存在している。我々が週毎に礼拝に与るのは、この祝福へと人々を招くためである。自分だけではなく、多くの人たちと共に終末に至るために招く働き、それが宣教である。従って、我々は礼拝において、宣教している。イエスが弟子たちに伝えたように、「罪の赦しへの悔い改めを宣教する」ことが礼拝である。「罪の赦しへの悔い改め」は、礼拝において伝えられるイエスの言葉。イエスの十字架の言葉に宿る神の意志なのである。

ルカによる福音書および使徒言行録は、ルカが書いたものだと言われる。著者ルカは「エルサレム中心主義」でこの二つの書物を書いたと言われる。何故、エルサレム中心主義なのか。それは、エルサレムがイエス殺害の場所だからである。この場所からすべてが始まったからである。この場所から「罪の赦しへの悔い改め」が宣教されるべきなのである。なぜなら、エルサレムには弟子たちの悲しみだけではなく、赦せない思いが残っているからである。赦せない思いを超えて、宣教しなければならない。赦せない思いが彼らの宣教の前に立ちはだかっている。この思いを超えることが彼らの課題。それゆえに、イエスは使徒言行録においては「エルサレムにおいてだけではなく、ユダヤとサマリアの全土、地の果てまで、わたしの証人として、あなたがたは生じるであろう」と言うのだ。弟子たちの憎しみの場所、悲しみの場所が、証人としての場所となる。赦せない思いの宿る場所が、罪の赦しを宣教する場所となる。イエスが、エルサレムに座していることを命じた意味がここにある。エルサレムから始まる弟子たちの宣教が「罪の赦しへの悔い改め」である意味もここにある。

罪の赦しは、赦されざる者が赦されることである。赦されざる者が赦される原点が、エルサレムにある。その原点は、まずイエスを見捨ててしまった弟子たち自身の罪の赦しである。さらに、イエスを十字架に架けてしまった人々の罪の赦し。サマリアにも、ユダヤ全土にも、そして、全世界にも、赦されざる者たちがいる。その原点は、エルサレムにおける弟子たちの赦しである。この赦しを受け取ることによって、弟子たちは宣教することになる。自分たち赦されざる者たちが赦されたのだと、宣教することになる。これが、イエスが昇天する意味でもある。

イエスの昇天は、イエスが弟子たちの側を離れることである。地を離れることによって、イエスは弟子たちだけではなく、全世界の上に臨在するお方となる。全世界の上に罪の赦しを与えるお方となる。その証人が弟子たち。彼らが自ら受けた罪の赦しを宣教する。自らが罪赦された者であるがゆえに宣教する。赦されざる者である自分自身が赦されたのだと宣教する。自分自身の義しさのためではなく、義しくない者が罪赦されるのだと宣教する。罪の赦しとは罪深き者が赦されてこそ、真実に罪の赦しである。罪を離れ、悔い改めたから罪赦されるのではない。罪赦されたがゆえに、悔い改めへと導かれる。赦されたことを生きることが、悔い改めである。従って、悔い改めてから赦されるのではない。赦されて、悔い改めを生きる。その証人が、弟子たちである。

イエスは、悔い改めへと導くために、彼らに復活して、現れてくださった。そして、40日に渡って、彼らにご自身のことを教えてくださった。神のご意志を語ってくださった。罪赦された弟子たちが、イエスの言葉を聞く。罪赦された弟子たちが、神の言葉に従う。罪赦された弟子たちが、神の言葉を宣教する。これが信仰の真実である。それゆえに、我々キリスト者は、悔い改めて罪赦されたのではないことを忘れてはならない。罪の赦しを受け取ったがゆえに、悔い改めという生きる方向性の転換がわたしのうちに生じたのだということを忘れてはならない。わたしから悔い改めることなどできなかった。にも関わらず、神が、イエスが、まずわたしを赦してくださった。赦されたがゆえに、悔い改めへと歩み出す力をいただくことができた。神とイエスとの上からの力が、わたしを包んだ。それが、罪の赦しの真実である。罪の赦しこそが、聖霊に包まれること。罪の赦しこそが、未来へと生きる力。罪赦されてこそ、我々は未来を今生きることが可能とされる。赦された者として生きて行く未来に、イエスは来てくださる。そのために、イエスは天に昇られた。

天にいますイエスが、我々を包んでくださる聖霊降臨を受け入れるときが近づいている。我々の未来を生きる現在が開かれるときが近づいている。その力を受け入れるために、イエスはご自身の体と血を我々に与えてくださる。イエスご自身が、我々を受け入れ、我々を受け入れる者に変えてくださる。今日も、感謝していただき、イエスのお働きを受け取って生きて行こう、終わりの日を望み見て。

祈ります。

Comments are closed.