「想起する真理」

2021年5月23日(聖霊降臨祭)
ヨハネによる福音書15章26節-16章4節a

「彼らの時が来たとき、わたしがあなたがたに言った彼らのことをあなたがたが思い起こすために」とイエスは言う。弟子たちがユダヤ人たちから迫害を受けるときが来たとしても、予めイエスがおっしゃっていたことを弟子たちが思い起こすために、今語っていると言う。しかし、この思い起こしは、「真理の霊」の働きである。弟子たちは迫害の中で右往左往するであろう。思い乱れ、逃げ回るかも知れない。そのような中にあって、落ち着いて「思い起こす」ことができるとすれば、それは弟子たちの力ではなく、イエスが「父の許から送る」「真理の霊」の力である。

迫害は必ず生じるであろう。それが人間の世界の罪の現実だからである。イエスは、この16章の終わりでも33節でこう言っている。「世にあって、苦難をあなたがたは持っている。しかし、勇気を出せ。わたしは征服してしまっている、世を」と。迫害という苦難を避けることはできないとイエスは言う。苦難を受けるであろうが、勇気を出せと言う。その根拠はイエスが世を征服してしまっているからだと。征服してしまっているのであれば、世は弟子たちに服従するのではないのか。いや、世の悪に支配された存在は、イエスの征服に抵抗している。それが弟子たちの迫害、苦難として現れるということである。それゆえに、現れた事柄に左右されるな、勇気を出せとイエスは言う。

ヨハネ16章の最初と最後に迫害と苦難が預言されている。それは世にある間、必然的に生じるのだと言われている。それゆえに、イエスは父の許から「真理の霊」を送る。弟子たちが、イエスの言葉ロゴスを思い起こすために。すべては、イエスがおっしゃった通りに生じていると、弟子たちが受け取るために。思い起こされた「真理」が弟子たちを力づける。弟子たちを自由にする。ヨハネ8章32節で語られていたように「真理はあなたがたを自由にするであろう」からである。従って、「真理の霊」は「真理」を想起させる霊であり、自由にする霊である。これが聖霊降臨の際に、弟子たち一人ひとりに降った炎のような舌である。その舌が語らせたのは、「神の力強い働き」だとルカは記している。それは、旧約聖書の預言者ヨエルが預言していたこと。すべての人が預言すると。預言とは、神の言葉を聞いたままに語ること。神の言葉を変えることなく、ありのままに語ること。神の言葉が真理であり、隠れなくある言葉である。この言葉をありのままに聞き、語ることが預言。終わりの日には、すべての者が神の言葉を語るとヨエルは預言した。なぜなら、神ご自身の霊が一人ひとりに注がれるからである。この預言が実現したとペトロは人々に語った。ペトロも「真理の霊」によって証言したのだ。

「真理」はこのとき初めて明らかになったわけではない。神が語られた言葉はすでに語られていた。人間がその言葉を聞かなかっただけである。耳を傾けることなく、無視した。しかし、ペンテコステ、イエスの復活から50日目に聖霊が降った。無視し続けた人間が聖霊によって、神の意志を受け入れるように造り替えられる出来事、それがペンテコステである。

ペンテコステ、50日祭はユダヤ教の祭。過越の祭から50日目ということで、ヘブライ語でシャブオット「七週の祭」と呼ばれるが、ギリシア語で50を表すペンテコステ50日祭と呼ばれた。ユダヤ教では、この日にモーセが神から十戒を授かったと考えられていた。キリスト教では、ペンテコステは、新しい律法授与の日となる。使徒パウロがコリントの信徒への手紙二3章3節で言うように、石の板に書かれた神の意志ではなく、一人ひとりの肉の心の板に書かれた神の意志。それが、聖霊が思い起こさせる「真理」なのである。その「真理」はイエスご自身。それゆえに、イエスが語る言葉は「真理」。「真理」を行う者は「光の方へ来ている」ともイエスはおっしゃっている。つまり、何事も隠すことはない。自分自身の罪も隠すことなく、神の前に認め、ひれ伏す。神だけが義しいお方であると認める。これが、聖霊が思い起こさせる「真理」の根本である。

この「真理の源泉」からすべては生じている。それゆえに、何が生じようとも「真理」が生じていると信頼できる。それが「真理」を思い起こした者。「真理」によって自由にされた者である。この世の悪を恐れることはない。イエスがこの世を征服してしまっているのだ。この世の悪が何を為そうとも、最終的には征服してしまっているイエスが支配しておられる。悪しきことに思えても、イエスが支配しておられると信じるならば、引き受けて生きることができる。この力は、聖霊が思い起こさせる「真理」から来たる。「真理の霊」は、弁護者、慰め主とも言われ、そばにいてあなたに語ってくださる。「イエスがおっしゃったとおりにすべては生じるであろう。今起こっていることも神のご意志に従って、終わりの日へと向かって行くであろう。恐れることなく、ただ神に信頼していなさい」と、聖霊はあなたに語ってくださる。

我々は、ひとたび自分の前に困難が立ちはだかると、不安に陥る。不安は、我々を恐れに陥れる。上手く行かないと思い込み、絶望するであろう。苦難を避けて、逃げ隠れするかも知れない。それでも、この世はいずれ神の支配に服する。終わりの日に向かって、すべては進んで行く。その日を迎える前に、我々はこの世のいのちを失うであろう。しかし、それで終わりではない。我々には復活の望みが与えられている。イエス・キリストが起こされたのだ。我々人間に先立って、神によって起こされたイエスが、我々に語っておられた言葉がある。ゲッセマネでイエスが祈ったように、「わたしの意志ではなく、あなたの意志が、生じますように」との祈りがある。我々のいのちは、この世で終わるいのちではない。永遠のいのちが与えられている。イエスと共に生きる者は、永遠のいのちに与っている。神のいのちは失われることなく、神の意志に従う者を生かし給う。真理によって自由を与えられた我々は、すべての恐れから解放されている。すべての悪から解放されている。何ものも我々を縛るものはない。

真理の霊、慰め主は、今日あなたに思い起こさせる。イエスの言葉、神の言葉は、語られたことを実現し給う力の言葉であると。神の意志に反抗する人間がどれだけ存在していようとも、神の言葉だけが実現する。神の約束だけが実現する。この約束が、この日一人ひとりに降った。ペンテコステの日に、一人ひとりに降った聖なる舌。聖なる霊。真理の霊は、父の約束であったとイエスはおっしゃる。その約束が降ったことを祝う日、ペンテコステ。あなたの肉の心の板に、神の意志が記される。あなたが忘れようのない神の意志が記される。忘れたとしても、聖霊が思い起こさせる。あなたは、神の意志に支配されている。神の意志が、あなたの意志となるようにと召されている。

あなたは、神のもの。神の霊をいただいて、神の心を知り、神の意志に従う心を起こされている。罪深いあなたにも関わらず、神が愛し、召し、ご自分の民としてくださった。罪深い者を赦し給うお方が、聖霊によって罪の赦しを与えてくださる。罪に縛られることはないと言ってくださる。あなたの罪は、イエスの十字架において、赦されてしまっているのだと、思い起こさせてくださる。罪深さの中に、依然として留まらざるを得ないとしても、少しずつ少しずつあなたは罪から解放されていく。自由を与えられた者として形作られて行く。真理によって生きる者として形作られて行く。倒れたとしても、想起する真理があなたを立ち上がらせる。勇気を出せと立ち上がらせる。わたしはこの世を征服してしまっているとおっしゃるイエスの言葉を思い起こす。イエスの勝利の許に、あなたのいのちが守られている。勇気をもって生きて行こう。あなたは愛され、召され、神のものとされているのだから。神の守りの中に、生かされているのだから。決して、みなしごにはしないと約束してくださったのだから。新しい律法授与の日を共に祝おう。新しいシャブオット、ペンテコステを感謝しよう。聖なる霊パラクレートスがあなたの側にいてくださる。

祈ります。

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