「水と霊からの誕生」

2021年5月30日(三位一体主日)
ヨハネによる福音書3章1節-12節

「もし、誰かが水と霊から生まれなければ、彼は可能ではない、神の国へ入ることは」とイエスは言う。「水と霊からの誕生」を語るイエスの言葉の意味するところは何か。なぜ、「霊から」のみではなく「水と霊から」と言われているのか。この後の6節では「肉から生まれた者は肉として存在している。霊から生まれた者は霊として存在している」と言われている。そこでは「肉」と「霊」との対比が明らかに語られているが、「水」は「肉」とは違うということであろうか。

「霊」は見えない。「水」は見える。しかし「肉」という言葉が示しているのは、物質ではない。人間的世界、人間的判断が支配している世界を意味している。そこでは神の事柄は受け入れられない。それが「肉から生まれた者」は「肉」つまり「人間的在り方」で存在していると言われる意味である。しかし、「霊から生まれた者」は「霊」つまり「神的在り方」で存在しているのである。ここにおいては、我々人間の在り方、あるいは存在の根拠が語られている。「肉から」とは人間的なものを起源として生まれるということである。「霊から」とは神的なものを起源として生まれること。従って、3節で言われている「上から生まれる」ということと同じ事柄を指している。

では、「肉から生まれる」とは「下から生まれる」ということであろうか。そうである。「下から」とは「肉から」であり、人間的次元での誕生理解を意味している。そのような理解が、ニコデモが考えている誕生である。「上から生まれる」と言ったイエスの言葉を「新たに生まれる」と理解し、新たに母の胎に二度目に入って生まれるということかと問う。そのようなことは不可能だと言うのだ。このような噛み合わない対話がここで生じている。肉としての理解と霊としての理解の間には越えることができない溝があるのだ。両者は次元を異にするからである。

そうすると、「水と霊から生まれる」ということは、同じ次元の事柄ということになる。物質的水と神的霊を起源として生まれるということは一致しないように思える。しかし、イエスはこのように言うのだ。どうしてなのか。

「水から生まれる」ことと「霊から生まれる」こととが同時に生じるのが、洗礼である。我々キリスト教の洗礼において、「水」と「霊」が働く。もちろん、「水」は身体的に働き、「霊」は内面的に働く。とは言え、「霊から生まれる」とは精神論ではない。身体的に水に沈められ、上げられることにおいて、「水から生まれる」出来事が生じる。これは象徴的出来事ではあるが、新たに生まれることを意味している。そして、我々は身体的にその誕生を経験する。その経験の内実が「霊から生まれる」ことである。それゆえに、「水から」だけでも「霊から」だけでもなく、「水と霊から生まれる」と言われているのである。洗礼は、身体的在り方と霊的魂の在り方が一致することを与える誕生なのである。

ニコデモは、この「身体的在り方」と「霊的魂の在り方」を区別できないだけではなく、「身体的在り方」のみで存在を見ているがゆえに、「二度目に母の胎に入って、生まれる」ということしか考えることができない。我々人間は、「身体的在り方」のみで世界を見る。自分を見る。世界と自分との関係も「身体的」にしか見ない。自分が手で触れ、扱うことができることだけがすべてだと思い込んでしまう。こうして、神の領域を無視してしまう。それゆえに、どこから来て、どこへ行くのかを知ることがなくても気にしない。そのような根源的問いは、見て触れることができることとは関係がないと思い込んでいる。根源的問いなど持てば、生き難くなる。それゆえに、自分が扱うことができないものを忘れる。いや、無視した方が生き易いのだ。こうして、我々人間は自分の目の前のことだけに左右される浅薄な思考に陥る。目の前のことだけを追い続けていれば、何とかなると思い込む。根源的な事柄を置き去りにして、刹那的に生きる。これが人間の罪の現実なのである。ここから解放されるためにも「水と霊から生まれる」ことが必要なのである。それは身体と霊的魂とが一つとなって生きるようにされる誕生である。

我々が身体的に生きることには、霊的魂が関わっている。身体性は霊的魂とは関わりないと思う人もいるかも知れない。しかし、身体とは霊的魂が現れるところであり、身体は身体だけで生きるわけではない。神は、我々人間に身体を与え、霊を与え、魂を与えた。創世記2章7節にはこのように記されている。「神ヤーウェは、人間を形作った、土からのチリで。そして、吹き入れた、彼の鼻のうちに、命の息(霊)を。そして、人間は生成した、生ける魂として」と。身体の形成と命の息(霊)の吹き入れ、その結果としての「生ける魂」としての生成。これが人間の創造である。人間の構成要素は、身体、霊、魂であることが記されている。人間は精神論で生きるわけではない。身体性だけでも、魂だけでもない。これらが統合されて、人間として生きるのである。しかし、アダムとエヴァの堕罪によって、我々は統合された人間としての在り方を見失ってしまった。それが、神ヤーウェが言う禁断の木の実を「食べると死ぬ」という意味であった。人間は、死んだ存在として、堕罪後の生を生きることになった。それが、身体性のみに囚われる我々の生き方を招いてしまったのである。

我々人間が労働を通して、囚われからの解放に至るようにと神は願われた。自分が造られた土を耕し、学ぶことを願われた。ところが、労働を嫌い、楽をする術を考え出して、我々は土から離れてしまった。それゆえに、自分を知ることなく、世界を知ることなく、根源的問いを忘れて、刹那的に生きることになった。これが我々人間の現実である。その現実の中へと神は、独り息子を派遣し、その十字架を通して、新しい世界を創出してくださった。人間の労働による努力ではなく、あくまで神の力に信頼する信仰による新しい生を創り出してくださった。それが「水と霊から生まれる」洗礼である。

このわたしが身体と霊と魂として統合され、外的にも内的にも一人の人間として生きる道を、イエスは開いてくださった。刹那的に目の前の事柄に囚われることなく、永遠の相で世界を見る目を開いてくださった。それゆえに、我々キリスト者は、神の世界、神の国を見る者。神の国の中に入っている者。この世界のすべてが神によって創造された神のものであることを承認する者。神が与え給うものはすべて善きものであると信じる者。使徒パウロと共に、すべては、神から、神を通して、神へと生きていることを認識している者。従って、風も霊も、神から神を通して、神へと吹いている。霊から生まれた者、我々キリスト者も同じである。我々は神から、神を通して、神へという道筋の中に生きている。この道筋を明らかにしてくださったのは、イエス・キリスト。このお方の十字架における完成が、この新しい世界に我々を創造してくださった。我々人間が、身体、霊、魂を統合的に生きる道を開いてくださった。「水と霊から生まれる」ことを神が与えてくださることで、我々はその世界に生きる者とされる。我々はただ受け入れるだけ。受け入れ、従うだけ。それだけで、我々は永遠のいのちの神の国に生きることができる。この世の肉の身体が失われたとしても、神が与え給うた身体性は失われない。神がわたしとして造った霊と魂、そして身体性は失われない。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が、我々を生ける魂として生かしてくださる。

あなたに与えられている身体性は父なる神によって形成された。あなたの内なる霊は、あなたを生かす神の息、あなたを生ける魂として生かしてくださるのは、聖なる霊によるキリストの言葉。三位一体なる神が、あなたを形作り、生かし、生ける魂としてくださる。分裂した生き方から、統合されたいのちを生きる者とされたあなたは、決して失われることなき存在。魂が現れる身体性を持って生きる。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神に栄光が世々限りなくありますように。アーメン

祈ります。

 

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