「聴従」

2021年6月6日(聖霊降臨後第2主日)
マルコによる福音書2章13節-17節

「わたしは来たのではない、義人たちを呼ぶために、むしろ罪人たちを」とイエスは言う。「むしろ罪人たちを呼ぶために」とは、何のために呼ぶのか。彼ら罪人と言われている人たちは、誰からも呼ばれる存在ではない。後ろ指を指される存在である。追い出される存在である。無視される存在である。

呼ばれるとは、選ばれることと言っても良いであろう。わざわざ呼ぶということは、選ばれているということである。誰でも、人から後ろ指を指される存在を呼ぶことはない。むしろ、誰からも誉められ、もてはやされる存在を呼ぶ。呼ぶ人は、自分も同じような存在だと思っている。呼ばれないのは、劣っているから。呼ばれないのは、価値がないから。呼ばれないのは、社会的に存在を認められていないから。ほとんどの人がそうなりたいと思う存在、そうなれそうだと思われる存在が選ばれ、呼ばれる。しかし、罪人と言われる人たちは呼ばれない。なぜなら、誰もがあのようになりたくないと思うからである。あんなやつの仲間だと思われたくない、自分はあんなやつとは違うと、誰もが思うからである。

ここに出てくる徴税人と罪人たちは、社会的に抹殺された存在である。ローマの税金を取り立てる徴税人は、お金を稼ぐために同朋であるユダヤ人を苦しめている。ローマの手先になって、私腹を肥やしている。徴税人は、ユダヤ人の敵である。アルファイの子レビも同じ。彼も誰からも呼ばれることなく、無視され、蔑まれ、罵られる存在であった。そんなレビにイエスは声をかけた。「わたしに従いなさい」と。そして、レビは立ち上がって、イエスに従った。おそらく、レビは驚いたことであろう。自分に声をかける人がいる。しかも「わたしに従いなさい」などと言う。このお方はどういう人なのか。分からないけれど、何故か立ち上がる気持ちが湧き起こり、彼は立ち上がった。座っていたレビが立ち上がった。自分のような者を呼んでくださるお方がいると立ち上がった。レビは立ち上がり、自分と同じ境遇の者たちを家に呼んだ。徴税人と罪人たちを呼んだ。呼ばれたレビが呼ぶ人になった。同じ苦しみを生きている人たちを自分の家に呼んだレビ。彼は、呼ばれたことのない存在が呼ばれる喜びを知った。それゆえに、イエスの声に聴き従い、同じ境遇の者たちを呼ぶ存在となった。たった一度呼ばれただけなのに、レビにとってはそれほどの喜びだった。

罪人と言われる人たちもレビと同じく、社会的に抹殺されていた。排斥されていた。彼らが犯した罪を贖うことができず、罪人というレッテルを貼られて、放り出された。どこにも行き場がない彼らがレビに呼ばれて、彼の家に入る。それは、まずイエスが彼らを呼んだからである。イエスは、彼らと共に食事をした。罪人と一緒に食事の席に着くということは、罪人の汚れが移ると考えられていた。それにも関わらず、イエスはレビを呼び、罪人たちを呼んだ。それゆえに、彼らはイエスに従った。それを見て、ファリサイ派の律法学者は批判する。彼らを呼ぶイエスも汚れた存在であると。しかし、イエスは言う。「強い人たちは、医者を必要としてはいない。むしろ、悪しく持っている人たちが必要としているのだ」と。病気になっていなければ、誰も医者に行かない。病気になっている人が、医者に行く。それは当然のことである。それなのに、医者を非難する人がいるであろうか。病気の人たちを迎えていると医者を非難する人はいない。むしろ、その人たちを助け、健康にするために働いていると言うのではないか。

ファリサイ派の律法学者は、病気の人の苦しみも、罪人の苦しみも理解せず、彼らの努力が足りないからだとうそぶく。苦しんでいる人をさらに苦しめて、自分は助けようとはしない。自分は汚れが移らないような安全な場所にいて、批判するだけ。イエスは、そのような社会を知っている。その社会の中で苦しんでいる存在を知っている。彼らを苦しめている社会の問題も知っている。その社会の中で、イエスは呼ぶ。苦しみ、悲しむ存在、徴税人と罪人たちを呼ぶ。呼ばれたことのない、無視された存在を呼ぶ。だからこそ、彼らはイエスに従った。自分たちを迎え入れてくれる人がここにいたと従った。自分たちをわざわざ呼んでくれる人がいたと従った。

呼ばれる喜びのうちに、彼らはイエスに従った。イエスに従うということは喜びなのである。しぶしぶ従うのではない。聴き従うということ、聴従は喜んで従うことである。我々キリスト者は、イエスに呼ばれて聴き従った。喜んで聴き従った。イエスがおっしゃることは義しいと喜んで聴き従った。それがキリスト者の喜びである。我々も、誰からもまともに呼ばれたことのないところから、まっすぐに呼びかけてくださったイエスの声を聞いた。自分を呼んでくださったと聞いた。それゆえに、我々もイエスに聴き従う者とされた。このお方について行こうと聴き従った。このお方は、嘘はつかないと聴き従った。都合が悪くなれば手のひらを返したように、途端に捨て去るようなお方ではないと聴き従った。このお方に偽善はないと聴き従った。我々は、イエスを信頼して、ついて来たのだ。この徴税人や罪人たちのように、イエスに聴従したのだ。

我々は、この最初の経験を忘れてしまう。イエスに従う中で、喜びを忘れてしまう。最初の喜びはどこへやら、イエスの言葉を守ることができないと苦しくなる。あなたは、病人なのだ。あなたを癒してくださるのはイエスなのだ。まずは、イエスに癒していただいて、イエスのおっしゃる言葉を守るようにされていく。癒される前に、イエスの言葉を守らなければと思ってしまうと、苦しくなるのは当然である。あなたには守る力はない。病人なのだから。病気が癒され、力を回復されて、ようやく守るように導かれる。ただし、あなたの力でイエスの言葉を守るのではない。神の力で守るのだ。イエスは、我々を神との関係の中に義しく置いてくださるお方。このお方によって、我々は神との義しい関係を回復していただくのだ。完全に回復するまでは、動いてはならない。じっくりイエスの許に留まり、イエスの言葉を聞き、神との関係をまっすぐに見つめること。そこから、少しずつ回復していくであろう。

あなたは、医者を必要としている。イエスを必要としている。神を必要としている。あなただけでは生きていけない。誰からも呼ばれなかったとしても、イエスに呼ばれたではないか。イエスは、あなたの問題をご存知なのだ。あなたの病をご存知なのだ。まっすぐにイエスに向かい、祈るとき、あなたは何に捕らわれていたのかを知るであろう。イエスの言葉を聞き続けるうちに、自分自身を縛っていた罪を知るであろう。罪を自覚したところで、ようやくイエスの治療を受けることができる。罪の自覚は、イエスの力を必要としていることの自覚。自分一人では何もできないことの自覚。神がわたしを愛しておられるのに、見えなくなっていたことの自覚。罪の深みに落ち込んでいたわたしを救い上げてくださったのは、イエスの呼び声だったと思い起こそう。あなたからイエスを求めたのではない。イエスがあなたを呼んだのだ。レビも罪人たちも、徴税人たちも、彼らからイエスを求めてはいなかった。イエスが彼らを呼んだ。彼らを求めた。神は、罪人を求めている。苦しみの中で、もがいている罪人たちを求めている。あなたが苦しみから解放されるようにと、求めている。

神とイエスにおいては、医者が病人を求めている。病人を呼んでいる。病人が医者を呼んでいるのではないのだ。呼ばれたあなたは、神とイエスによって見出された存在。神とイエスがあなたを癒したいと呼んでくださったのだ。このお方の許へ呼び出されたことを感謝しよう。イエスの処方箋は、イエスの体と血。我々を癒し、神の力に満たしてくださるのは、イエスの体と血。我々を思うこのお方のご意志が宿ったパンと葡萄酒をいただいて、神の力に満たされよう。あなたを呼んでくださるお方の愛の中に入っていこう。あなたのうちに、イエスも入ってくださる。あなたを回復するために、あなたのうちに生きてくださる。イエスのみことばと共にいただくイエスの体と血があなたを癒してくださる。あなたを呼ぶお方に聴き従って生きていこう。

祈ります。

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