「不可能性の認識」

2021年6月13日(聖霊降臨後第3主日)
マルコによる福音書2章18節-22節

「可能ではない、花婿が彼らと共に存在している婚礼の息子たちが断食することは」とイエスは言う。婚礼の息子たちとは、花婿を祝う友のことである。祝う友は断食などするはずはないし、婚礼の息子である間は、身体も心も彼らは断食する状態にはない。彼らは自分の力で、断食するのではなく、身体と心とが断食を求める状態になったときに断食するということである。これは、自分の力ではどうにもしようのないことである。

ホセア書においても、同じことが語られている。18節にはこうある。「その日において、それは生じるであろう。主の語り。あなたはわたしを呼ぶ、わたしの夫と。再び、わたしの主人と呼ぶことはない。」と。ホセア書で語られている「その日」とは、神ヤーウェがイスラエルの民一人ひとりの心に語りかける日。その日には、神ヤーウェの力によって、イスラエルの民はヤーウェを「わたしの夫」と呼ぶと言われている。しかも、「その日」に生じるであろうと言われているのだから、「その日」が来なければ、それは生じない。つまり、人間の力で「その日」を来たらせることも、「わたしの夫」と呼ぶことも不可能なのである。

福音書の日課において、イエスがおっしゃることも、不可能性の認識である。20節でイエスはこうおっしゃっている。「しかし、日々が来たるであろう」と。その日々は「花婿が彼らから取り去られる」日々である。「そのとき、彼らは断食するであろう、その日において」とイエスはおっしゃっている。イエスが言う、来たるべき日々を人間が来たらせることは不可能である。人間の力では不可能であることを認識することからすべては新しくなっていくとイエスはおっしゃっている。

イエスを批判する人々は、断食を行うことは、人間の側の力によって可能だという立場である。それなのに、断食しないというのは怠慢だという認識である。そこにこそ人間の罪が存在している。神の事柄を自分の力で生じさせようとする罪。神に従うのではなく、神を従わせようとする罪。努力できる人は、努力できる状態にある。断食できる人は断食できる状態にある。その状態を来たらせているのは、人間の意志ではなく、神の意志である。神の意志に従って、断食している人は、自分の断食を誇ることはない。人に見せて誉められようとすることもない。ただ断食する。ファリサイ派もヨハネの弟子たちも、そのように断食しているならば、それで良いはず。イエスの弟子たちがどうであろうとも、自分たちは神の意志に従って断食する。それだけである。

ところが、イエスを批判する人々は、ファリサイ派もヨハネの弟子たちも、自分たちにできないことをしている素晴らしい人たちだという認識から、断食をしないイエスたちを評価している。断食することが誇りになり、そのグループの素晴らしさを証明すると考えている。彼らは、自分たちが不可能であることを、実現している人たちの素晴らしさを認めているが、それは彼らの力を誉めていることである。彼らとイエスたちとを比較して、どちらが素晴らしいかを評価している。自分たちは何もできないにも関わらず、評価する立場にあると思い込んでいる。客観的立場に立っていると思っている。しかし、彼らは自分を神の立場に置いている。これも罪。神が可能としてくださって、我々は可能とされる。そのためには、自らの不可能性の認識が必要なのである。

如何なることにも「時」がある。コヘレトの言葉3章で語られているように、「生まれるための時、死ぬための時」、「植えるための時、抜くための時」、「泣くための時、笑うための時」、「嘆くための時、踊るための時」、「愛するための時、憎むための時」、「戦いのための時、平和のための時」など、正反対の時がある。そのどちらも神が設定なさった「時」である。その時が来たることで、すべては生じ、すべては消える。「消える」ことも「消える」という神の意志が生じることで「消える」。この世に現れて見えていることだけが神の意志なのではなく、現れが見えなくなることも神の意志である。「花婿が彼らから取り去られる時」も神の意志である。これを人間が覆すことはできない。その時が来たることを早めたり、遅らせたりすることもできない。すべては神の意志に従って生じる。それゆえに、相応しいとき、相応しいもの、相応しい事柄が、その時々に存在するのである。それが新しいものと旧いものの間の越えられない境である。それぞれに相応しいときを生きるのが、神の創造である。

古い服に相応しいのは同じ時を過ごしてきた古い布である。新しいワインに相応しいのは、これから同じ時を過ごすであろう新しい革袋である。古い服は、古い服としての充満を持っている。満たされているものがあるところに、新しい布を当てるならば、その充満は破られることになるとイエスは言う。この充満をプレーローマと言う。満たされていること、完成していることを現す言葉である。古い服は古い服としての完成に至っている。そこに新しい布を当てれば、完成が破壊され、破れはより悪くなると言うのである。革袋にしても、同じ時を過ごすがゆえに、ワインと革袋の関係は満たされている。別のワインと共に過ごした時間を持つ革袋は、すっかり伸びきっているがゆえに、これ以上伸びない。これから新しい時を過ごさなければならない新しいワインが古い時を破壊してしまうことになるとイエスは言う。それゆえに、同じ時を過ごすべく、相応しい時に、相応しいものが、相応しく生じている。これを人間の力で変更することはできない。あくまで、神の決定があって、すべては成っていく。

それゆえに、人間は自分の意志でことを起こしたり、止めたりしてはならない。それは出過ぎたこと。罪深きこと。自らが神になろうとしたアダムとエヴァと同じ罪。イエスは、原罪に働く場を与えないために、相応しい時を生きるようにと語っている。我々人間は、原罪に染まっている。原罪の働きによって我々自身の意志を実現しようとする。自分の努力でどうにでもなると思い込んでいる。相応しい時に、相応しい人が、相応しい場所に置かれることを受け入れない。何とか食い止めようとする。何とか動かそうとする。どちらも人間的意志。コヘレトが言うように、地の上のすべてには神の時があるのだ。その時を動作させるのは神のみであることを、我々は受け入れなければならない。あなたの力で、この世界を動かすことはできない。もちろん、大きな世界を動かすことができないとしても、小さな自分の周りは動かすことができるだろうと思い込むものである。しかし、大きくとも小さくとも、どちらも神の世界、神の時の中で生じている世界。一瞬、自分の思うように動かせたと感じることもあるであろう。しかし、それはその時だっただけなのである。あなたの力ではないのだ。

あの十字架を引き受けた時も、イエスは自分の意志ではなく、神の意志が生じるようにと受け入れた。逃げることもせず、ただ引き受けた。逃げることができるときもあった。その時には逃げた。しかし、最後の時には逃げることなく、引き受けた。イエスはすべてを神の時の中で生きてくださった。我々人間が思い上がっているところで、ただ神の意志に従う道を開いてくださった。このお方の歩まれた道こそが、我々が歩むべき道。相応しい者に、相応しい場所が与えられ、相応しい時が生じる。これが今日、イエスが我々に語ってくださるみことば。

あなたに与えられている時をただ受け入れて、今を生きて行こう。あなたは神の時の中で造られ、神の置いてくださった場所で生きるべく召されている。神があなたを造った。神があなたを召した。神があなたを導き給う。神はあなたの夫として、あなたの心に語りかけてくださる。あなたは可能とされる時に、可能とされることを為していくことができる。神の力は、あなたが存在として満たされるようにと働いてくださる。あなたはあなたという存在として満たされるために、創造された。あなた自身の意志ではなく、神の意志によって創造された。その自分自身を喜び、神の時に相応しく生きていくことが、あなたの救いなのだ。あなたは神のものである。

祈ります。

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